吉海直人の古典コラム *new!!

長らく連載されていた同志社女子大学HP

「教員によるコラム」の続編として、

吉海先生に古典コラムを書いていただけることになりました!どうぞお楽しみに♪          

 

吉海直人(よしかい・なおと)

1953年長崎生まれ。國學院大學大学院博士後期課程修了。博士(文学)。同志社女子大学名誉教授。専門は平安時代の物語及び和歌の研究。

『百人一首の正体』ほか著書多数。

 

〈吉海先生より〉

  女子大学の「教員によるコラム」に以下の項目を掲載しているので、

  こちらもお読みいただければ幸いです。

・謎だらけの「偏つぎ」(2024/02/20)

・藤原道長は「三郎」か?―大河ドラマ「光る君へ」第1回を見て(2024/01/09)

・「いづれの御時にか」―『源氏物語』を読むこと―(2022/10/03)

・『源氏物語』は疫病を描かない?(2022/04/13)

大河ドラマを見ている人へ(1)―平安貴族女性の名前について              2024.9.3

 2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、紫式部のことを「まひろ」と称していますね。これは決して紫式部の本名でも幼名でもありません。脚本家の大石静さんが便宜的に命名したドラマ上の架空の名前です。ただ大河ドラマで一年間「まひろ」という名が使われると、知らない間に「まひろ」が定着してしまいそうで、それがちょっと問題かもしれません。

 もちろん当時の貴族女性には、ちゃんと名前が付けられていました。身分の高い上流貴族なら、定子とか彰子、あるいは倫子・明子・詮子など、名前が分かっています(記録に留められています)。それに対して身分の低い下級貴族の場合、まず本名が書物に記載されることがないので、本名を知る手がかりがありません。

 下級貴族で、特に宮仕えなどしたことのない女性は、外部に名前が漏れることはほぼありません。たとえば『蜻蛉日記』の作者として知られている道綱母がその代表です(大河の「寧子)は創作です)。彼女の場合、若くして兼家と結婚しているので、宮仕え経験はありません。有名な『蜻蛉日記』の作者だからといって、本名がわかるわけではないのです。

 それでは困るので、便宜的にその人を特定する手段として、父親や夫や息子が担ぎ出され、〇〇の娘とか〇〇の妻、〇〇の母という表記がなされているわけです。可能性としては父藤原倫寧の娘、夫藤原兼家の妻、息子藤原道綱の母という三択が考えられます。ただし兼家には時姫という正妻がいたので、兼家の妻とは称されないのでしょう。

 『更級日記』の作者は菅原孝標の娘ですね。彼女の場合、夫橘俊通の名でも子供仲俊の名でも呼ばれていないし、祐子内親王に出仕した際の女房名でもありません。

 ついでながら兼家の妻「時姫」は本名でしょうか。彼女も下級貴族の出身ですし、宮仕えもしていないので、本来ならば名前がわかるような人ではありません。ところが彼女が生んだ道隆・道兼・道長。超子・詮子らが出世したこと、さらに詮子が生んだ懐仁親王が一条天皇として即位したことで、彼女は永延元年(987年)に正一位を贈位されています。これによって本名が書き残される資格を得たわけです。

 唯一の疑問といえば、下級貴族の娘に最初から「姫」が付いていることです。これは夫や息子たちの出世によって、後から付与されたものかもしれません。そうなると本名は、単純に「時子」であった可能性も捨てがたいことになります。真相は不明ですが、貴族女性の本名にはこんな問題もはらんでいるのです。

 さて道綱の母の場合、「倫寧の娘」も「道綱の母」も可能というか間違っていません。おそらく若い時には「倫寧の娘」だったのが、道綱が右大将にまで出世したことによって、途中から「道綱の母」に移ったのではないでしょうか(その頃には兼家も死去)。

 これに対して宮仕えに出た女性たちは、いわゆる女房名で呼ばれています。清少納言や赤染衛門などがその例です。和泉式部など、父大江雅致(式部丞)にちなんで「江式部」という女房名もあったのに、別れた夫和泉守橘道貞にちなむ「和泉式部」で生涯を通して呼ばれています。これも奇妙ですね。やや特殊な女性として、道隆の正妻高階貴子があげられます。彼女も下級貴族出身ですが、円融天皇の内侍として宮仕えしたことで「髙内侍」と称されています。「髙」は高階から採られたものです。内侍として従三位の位まで与えられていたので、本名がわかるのでしょう。

その後、彼女は藤原道隆の妻になって伊周・隆家・定子・原子などを生んでいます。ご承知のように定子は一条天皇の后になり、伊周は内大臣の位にまで登っています。この内大臣のことを中国では「儀同三司」といったことから、貴子は「儀同三司の母」と称されるようになりました。百人一首の作者名も「儀同三司の母」となっていますよね。

 ということで、貴子は女房名から息子の官職名に移っていることがわかります。また自らの出世と夫や子供たちの活躍で、貴子という本名がわかっているのですが、それでも本名で呼ばれることはなく、最終的には「道綱の母」と同様に「儀同三司の母」で通しています。本名が分かっていても、本名で呼ばれることは避けられていたようです。

 

 さて肝心の紫式部ですが、父藤原為時にちなんで「藤原為時の娘」、あるいは父が式部丞だったことから「藤式部」と呼ばれています。父は越前守に任命されているので、「越前」という女房名も可能です。また藤原宣孝と結婚したことで、夫の官職にちなんで「山城」とか「右衛門佐」という女房名も考えられますが、紫式部も正妻ではなかったし、宣孝はすぐに亡くなっているので、夫の官職で呼ばれることはありませんでした。むしろ紫式部の場合は、『源氏物語』の作者ということで、若紫(紫のゆかり)に因んで「紫式部」という名前がぴったりだったともいえます。私は強いて「香子」(角田文衛説)を採用する必要はないと思っています。