「日学教師の会」応援コラム 吉海直人

 日本語日本文学科出身で、現在国語あるいは日本語の教師として働いている卒業生が少なくないことがわかりました。それなら教師間の交流があった方がいいとのことになり、「日学教師の会」が発足しました。といっても職場は忙しいので、目立った活動は望めそうもありません。

 そこでせめてコラムで、教師のみなさんを応援できないかと考え、掲載を始めることにしました。少しでもみなさんのお役に立てれば幸いです。

 

吉海直人(よしかい・なおと)

1953年長崎生まれ。國學院大學大学院博士後期課程修了。博士(文学)。同志社女子大学名誉教授。専門は平安時代の物語及び和歌の研究。『百人一首の正体』ほか著書多数。

 

5 桐壺巻の不在めぐって(古典2)                              2025.2.4

   一巡りしてまた古典です。物語を面白く読むためには、書いてあることをそのまま受け取るだけでは不十分です。何が書かれているかの裏側に、何が書かれていないか(隠されているか)を考えてみなければなりません。学校では出席をとりますが、誰が出席しているかがわかれば、そこから誰が休んでいるかも自ずからわかります。

 私は『源氏物語』を、推理小説の犯人捜しのように読むことを勧めています。推理小説には、必ず犯人捜しの布石が置かれているからです。それに気づかずに素通りしていては、犯人に行き当らないだけでなく、面白く読めないと思うからです。

 では桐壺巻冒頭の本文はどうでしょうか。そこに何が書かれていないかすぐにわかりますか。書いてあるのは「女御更衣あまたさぶらひ給ひける」です。これで後宮に大勢の女性たちが仕えていることはわかります。しかしここで肝心なのは、そこに描かれていないものを見つけることです。

 そもそも後宮には、女御・更衣以外にどんな人が想定できるでしょうか。ちょっと考えてみてください。そうするともっと重要な存在、つまり后(中宮・皇后)が描かれていないことに気づくはずです。おそらくまだ誰も立后していないのでしょう。それがわかると、ここに登場している中の誰が后になるのか、という興味が湧いてきます。

 本命は、いわずとしれた弘徽殿女御です(女御は一人しか登場していません)。ところが一介の桐壺更衣が「すぐれて時めき給ふ」とあって、弘徽殿と張り合っていることがわかります。そうなると、更衣による下克上まで想定されます。とにかく何が書かれていないか、常に考えながら読み進めてほしいのです。

   次に桐壺更衣が御子を出産する場面はどうでしょうか。皇子が誕生した途端、一の皇子のことが語られるのは、これまで皇子が一人しかいなかったからでしょう。二人目の御子の誕生によって、今度はそのどちらが皇太子になるのかという問題が浮上したのです。だからこそ一の皇子の外戚である右大臣が登場しているのでしょう。

   ではこのことから、描かれていないものが何か、おわかりになりますか。そう、大臣は一人ではないですよね。というより右大臣の上席には左大臣がいるはずです。場合によっては太政大臣や内大臣の存在も考えられます。少なくとも左大臣はいます。それにもかかわらず、当分姿を見せません。どうしてなのでしょうか。左大臣は次期皇太子争いには無関心なのでしょうか。

   肝心の左大臣は、源氏の元服に至ってようやく登場します。となると左大臣の存在は、今まで意識的に伏せられてきたとしか思えません。右大臣の存在があって、その上席たる左大臣が登場しないのは、どう考えても不自然だからです。おそらく弘徽殿と桐壺更衣の対立の構図を強調するために、意図的に描かれなかったのでしょう。あるいは物語の背後で、左大臣が桐壺更衣をバックアップしていたのかもしれません。あるいは弘徽殿の立后を阻止・延引させていたのかもしれません。左大臣ならそんなことも可能だからです。最終的に源氏の後見役を引き受けたのも、その延長線上で考えられます。

   そんなことをあれこれ考えていると、ふと皇太子が不在であることに気づきます。桐壺帝が即位する際、誰も立太子していないのでしょうか。実は後になって前坊(廃された皇太子)の存在が明らかにされます。皇太子は確かにいたのです。

   もう一つ、目立たないけれども重要な不在がありました。それは、桐壺更衣の女房達が一人も描かれていないことです。もちろん後宮における権力争いですから、弘徽殿と桐壺更衣の一騎打ち(直接対決)で事足りるのかもしれません。あるいは後宮における桐壺更衣の孤立を強調するために、あえて側近の女房を描いていないのかもしれません。

   それにしても臨終という大事な場面に、桐壺更衣の乳母さえ登場していないのは変です。普通だったら桐壺更衣の一番の身内・側近として、母北の方以上の乳母の悲しみが描かれてもおかしくありません。しかしながら、結局桐壷更衣の乳母は、物語に一度も姿を見せることはありませんでした。「はかばかしき御後見しなければ」ということからは、父大納言の死去のみならず、乳母の不在までも読み取らなければならなかったのです。

 いかがですか。不在ということを意識しただけで、物語の読みがぐっと深まったとは思いませんか。

 

4 「日本」は「にっぽん」か「にほん」か(日本語1)                2025.1.28

 世界中の国の中で、自国名の読み方が統一されていない国があるというのは、珍しいことではないでしょうか。これは国民性あるいは日本語の特徴なのかもしれませんが、日本人は案外曖昧なところがあって、自国名について「にっぽん」でも「にほん」でもどっちでもいいと思っている人が多いようです。みなさんはどうですか。

 そういえばアメリカのことを日本人は「米国」と書き、イギリスのことを「英国」と書いていますが、これは日本以外では通用しない表記です。同様のことが日本語教育の現場で生じています。外国人留学生の悩みとして、「日本」をどう読めばいいのかわからないという声がよく聞かれます。もちろん日本語教師はきちんと教えているのでしょうが、ひとたび町へ出た途端、まったく不統一で混沌としていることにいやでも気づかされます。

 たとえば福澤諭吉が印刷された一万円札には「Nippon(Ginko)」とあります。「日本放送」は「ニッポン(ホウソウ)」、「日本郵政」は「ニッポン(ユウセイ)」です。またサッカーなどのスポーツでは、「日本代表」を「ニッポン(ダイヒョウ)」としています。それに対して「日本酒」は「ニホン(シュ)」、「日本航空」は「ニホン(コウクウ)」、「日本大学」は「ニホン(ダイガク)」、日本語日本文学科は「二ホン(ゴ)ニホン(ブンガッカ)」ですね。どうも読み方に法則などなさそうなので、これを留学生に納得させるのは大変です。

中でも面白い現象として、東京で地下鉄に乗って「日本橋」駅で降りると、「Nihombashi」と案内板に書かれています。これが大阪に行くと「Nippombashi」となっています。どうやら関東では「にほん」派、関西では「にっぽん」派のようです。現状でこのように二つの読みが混在しているのですから、これを統一しようというのがそもそも無理な相談です。

 では何故このような二通りの発音が存在するのでしょうか。歴史を遡ると、古く日本は「倭」の国であり、それを「やまと(大和)」と読んでいました。後に「日の本」「日本」という表記が用いられるようになりましたが、それは国内向けというより国外向けでした。「日」は漢音「ジツ」、呉音「ニチ」です。「本」は漢音・呉音とも「ホン」としか読めません。「日本」は呉音の字音読みとしてまず「にっぽん」と発音されたものが、次第に促音を発音しないやわらかな「にほん」に変わったという説が有力です。それとは別に、平安時代は貴族の大和言葉として「にほん」とされ、鎌倉時代になって武士が「にっぽん」というようになったという説もあります。これなら関東と関西の違いということも説明がつきます。

 いずれにしても、二つの読みは今日まで併用されてきました。近代になって、俄かに統一しようという動きが生じています。昭和九年の文部省臨時国語調査会において、「日本」の読み方は「にっぽん」に統一されました。その際、例外的に東京の日本橋と「日本書紀」だけは「にほん」と読むことを許容しています。それに伴って、外交文書における国号の英文表記も、「Japan」(英語)から「Nippon」(日本語)に変更されました。当時は、日中戦争などが始まろうとしていた時期であり、軍部は「にほん」よりも「にっぽん」の方が力強く(勇ましく)聞こえるからという理由だったようです。「にほん」だと「二本」と同音になって紛らわしいということもあげられます。ただし伝統的な和歌の文化を継承する皇室では、「ニッポン」のような促音は好まれませんでした(非歌語)。

 この文部省臨時国語調査会の決定を受け、帝国議会でも審議されました。戦争中の昭和十六年には、帝国議会で当時の国号「大日本帝国」の発音を「だいにっぽんていこく」と定める検討がなされましたが、最終的には保留のまま法律制定には至っていません。そして第二次世界大戦後の昭和二一年、帝国憲法改正特別委員会において、「日本国」と「日本国憲法」の正式な読み方について質疑がなされた際、金森徳治郎憲法担当大臣(当時)は、「決まっていない」と答弁しています。戦後も読みは不統一のままだったのです。

 その後、昭和四五年七月、大阪万国博覧会を睨んで佐藤栄作内閣は、「日本」の読み方について「にほん」でも間違いではないが、政府は「にっぽん」を使うと閣議決定を行いました。しかしここでも法制化にまでは至っていません。おそらく「にっぽん」とすることで、再び軍国主義化することが懸念・抑制されたのではないでしょうか。

 そして平成二十年には、読みをどちらか一方に統一する必要はないという答弁が行われ、複数の読みを許容することで現在に至っています。これに関してNHKの調査では、「にほん」派が六一%で「にっぽん」派が三七%でした。「にほん」と読む人の方が圧倒的に多いことがわかります。ただし当のNHKは、日本の国名(国号)として、「にっぽん」を採用しています。統一されるのがいいのか、それとも不統一こそが日本の文化なのでしょうか。

 

3 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の本文校訂問題(近代1)                2025.1.21

 近代文学からは、真っ先に『銀河鉄道の夜』を取り上げました。宮沢賢治の代表作として今も人気が高いからです。でも賢治が生きている間、出版されることはありませんでした。それもあって賢治は、十年近く原稿に手を入れ続けています。というより、複数の草稿が残されていました。

 賢治の原稿(遺稿)は、すべて弟の清六に託されており、亡くなった翌年の昭和九年には、文圃堂から全集全三巻として刊行されました。ただし残されていたのは『銀河鉄道の夜』の草稿であり、完成原稿ではありません。文圃堂版が刊行された時点では、そういった草稿の研究はまだ行われていませんでした。

 その後、研究者による綿密な本文研究が行われたことで、大きく三度にわたる改稿が確認されました。それを便宜的に第一次稿から第四次稿と分類し、その成果は昭和四十九年に筑摩書房から『校本宮澤賢治全集』として刊行されました。この校本には第一次稿から第四次稿までの『銀河鉄道の夜』の四つのバージョンがすべて収められており、研究者必携の本となっています。

 そこで明らかになったのは、第一次稿から第三次稿までにはさほど大きな改稿がないこと、第四次稿においてかなり大きな改稿が行われているということです。たとえば冒頭の三章分、学校の場面からジョバンニが活版所に行って仕事をし、家に帰って病身の母親と話すという展開、及び結末のカムパネルラが川で行方不明になる話は、第四次稿において増補されたものなので、それ以前にはありません。逆に第三次稿まであった、銀河鉄道の旅はブルカニロ博士の実験によって主人公が見た夢だったという設定は、第四次稿において削除されています。要するに第四次稿にブルカニロ博士は登場しないのです。

 これに基づき、第一次稿から第三次稿までを初期形、第四次稿を最終形もしくは決定稿とされました。これは必ずしも完成形ではないのですが、必然的に第四次稿を底本とした本文が研究論文に引用されるようになっています。賢治の改稿の意図に関しては、初期形が自己犠牲の精神を高らかに謳っているのに比して、最終形はむしろ「雨ニモマケズ」にも共通する「祈り」がテーマになっていると分析されています。そのため「ほんとうのさいわい」が何かが曖昧になってしまったという意見もあります。

 ところが文圃堂版全集の本文が第四次稿ではなかったこともあって、初期形の『銀河鉄道の夜』に慣れ親しんできた読者にとって、ブルカニロ博士の登場しない『銀河鉄道の夜』は到底受け入れがたいものでした。要するに第四次稿が決定版になることはなかったのです。そのため『銀河鉄道の夜』は、便宜的に初期形と最終形の二つを一緒に掲載するという、きわめて異例な形で刊行されています(斎藤茂吉の『赤光』もこれに類似しています)。

 それだけではありません。苦肉の策というか、最終形を底本にしていながら、賢治が削除したブルカニロ博士を復活させるという、いいとこ取りの変形バージョンまで編み出されました。これは作者である賢治のあずかり知らぬ、後人によるリライトあるいはミックス版ともいえます。その代表例が谷川徹三校訂の岩波文庫版でした。これは明らかに谷川徹三の文学観が入り込んだもので、いわゆる純粋な校訂とは異質のものです。ですから岩波文庫本を底本として、宮沢賢治の執筆意図を研究することはできません。できるのは谷川徹三の校訂意図の研究です。もちろんそれも研究として成り立ちます。ただしそういった経緯がわからないまま、安易に岩波文庫を使用するのは極めて危険です。

 といっても、岩波文庫版は一般読者に人気がありかつ安価なので、このバージョンが好きだという読者も少なくありません。現在でもそれなりに人気があるので、再版され続けています。ですから『銀河鉄道の夜』を読んだり研究する際は、何を底本としているかをきちんと認識する必要があります。特に岩波文庫は要注意です。やっかいですね。

 

2 桐壺巻の「あらぬが」の「が」をめぐって(古典1)                                                   2025.1.14

 古典は光る君への余韻として、『源氏物語』から始めます。みなさんは桐壺巻の冒頭部分にある「いとやむごとなき際にはあらぬが」の「が」について、高校古文の授業で「これは逆説の接続助詞ではなく同格の格助詞」と習いませんでしたか。かつて高校生だった私は、「けれども」と逆説で訳した方がわかりやすいのに、どうして「人で、人」という日本語としてすっきりしない訳にしなければならないのか疑問でした。先生に質問すると、「つべこべいわずに覚えろ」といわれたのを覚えています。今からもう五十年以上も前の話です。

 普通の高校生だったらそれで引き下がるかもしれませんが、私の心はずっとくすぶり続けました。ひょっとするとこのことが、古典を研究するきっかけになっているのかもしれません。後になって石垣謙二という研究者が、「主格「が」助詞より接続「が」助詞へ」(『助詞の歴史的研究』岩波書店・昭和30年)という論文で、平安中期頃の助詞「が」に接続助詞として用いられた例は見出だせないので、これは格助詞とするべきだと論じていることを知りました。

 要するに古文の教科書はこの石垣説を踏まえることで、同格の格助詞として統一されていたわけです。しかし古文の先生から、そういった経緯についての説明は一切ありませんでした。最近は、

接続助詞の「が」は格助詞が元になっており、接続助詞としての「が」は平安時代末期以降になってから用いられるようになった。

と説明されることもあるようです。いい時代になりましたね。ただここに問題がないわけではありません。というのも石垣氏自身、

主格「が」助詞より接続「が」助詞への発展は実に剩す所一歩であり、接続「が」助詞の発生に対する準備は茲に全く完了したと称する事が出来るのである。

とも述べられているからです。

逆説の「が」の扱いについては、文法的に正しいか間違っているかではなく、時間的に早いか遅いかだったのです。ということは、仮に『源氏物語』と同時代の作品の中に接続助詞の用例が見つかったら、たちまち逆説で訳すことも許容されることになります。そもそも同格の「が」の用例は少ないし、後世には逆説の方が主流になるのですから、後世の人が逆説で解釈するのも当然です。私など一歩踏み込んで、桐壺巻の「あらぬが」こそは逆説の接続助詞の初出例ではないかとさえ考えています。

幸いそれは私だけの妄想ではありませんでした。田村隆氏(東京大学)も「いとやむごとなききはにはあらぬが―教科書の源氏物語」(語文研究104・平成十九年十二月)及び「『桐壺巻』の練習問題」(高校国語20・平成二五年)という論文において、懐疑的な見解を述べています。もっとずっと以前に玉上琢弥氏も、

  「あらぬが」の「が」は、この当時接続助詞としてはっきりした用例が見られないので、格助詞として見る、とするのが国語史での通説であるが、格助詞という分類に拘泥して、「たいして重い身分ではない方が、めだって御寵愛の厚い、ということがあった」などと日本語らしくない訳文をつくる必要はないと思う。国語史家でも格助詞から接続助詞に移行するその中間の時代であると考えているのだから。

と疑問を投げかけていました。それに賛同したのか、瀬戸内寂聴の現代語訳や橋本治の『窯変源氏物語』などでは、堂々と逆説で訳されています。

 こういった解釈の揺れが生じる以前、大学入学試験問題として、

  いづれの御時にか、女御、更衣あまた侍ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。

という問題文があげられ、

【問題】下線部の「が」について、次の空欄を文法用語で補え。

  この「が」は、イ[   ]を示すロ[   ]と考えられることもあるけれども、今では一般にハ[   ]を示すニ[   ]とされている。

という設問が出されたことがあります。これに対する模範解答は、

  イ=逆接  ロ=接続助詞  ハ=同格  ニ=格助詞

でした。

正解は高校で教えられているままなので、当時は入試として疑問視されることはなかったようです。しかし今だったら、入試問題として出題することはできないかもしれません。あえて出すとすれば、「高校では逆説の接続助詞ではなく同格の格助詞と教えられているが、それについて意見を述べなさい」です。さてみなさんはどのように解答するでしょうか。

1 令和七年は巳年です!                              2025.1.7

 まずは干支のことから始めましょう。今年の干支は乙巳(きのとみ)です。十二支の六番目ですが、どうして六番なのかは不明です。そこで漢字から攻めてみます。まず「乙」は未だ発展途上の状態を表し、「巳」は植物が最大限まで成長した状態を意味します。この干支の組み合わせによって、これまでに蓄積してきた努力や準備がようやく実を結び始める時期であることを示唆します。中国の『漢書』律暦志にも、それまでの生活に終わりを告げて、新しい生活が始まると書かれています。巳年は成長と結実の時なのです。

実は私も巳年生まれなので、今年は年男になります。もっとも昔は還暦までで、その後の年男など想定されていなかったようです。無事に正月を迎えられただけで儲けものなのです。なお年男にはもう一つ、正月の行事を担う意味もあります。正月行事の年男は、門松の準備や神棚の飾り付け、若水を汲むなど、正月の歳神様を迎える役割を担っていました。また旧暦では、節分の行事も正月行事の一部とされていたので、年男が豆まきも担当していました。それが新暦によって正月と節分が分離したため、年男による豆まきが独立した風習のように思われているのです。

 ところで日本では、『古事記』にあるヤマタノオロチ退治をはじめ、多くの神話や民話に登場しています。ただしキリスト教によってか、蛇は不気味だとか恐ろしい存在のように受け取られています。それと反対に、脱皮を繰り返して成長するところは、復活・再生・不老長寿や金運向上のシンボルとして、古来縁起の良い生き物ともされてきました。特に白蛇は弁財天(弁天様)のお使いとされており、信仰の対象として幸福をもたらすシンボル(神の使い)として尊ばれています。言語遊戯的に、「巳」は「実」と同じ読みなので、そこから「実(巳)入りがいい」ともいわれています。縁起担ぎに脱皮した蛇の抜け殻を財布に入れたり、蛇の皮製の財布を金運のアイテムとしているのはそのためでした。

 なお金運を願う人は十二日に一度めぐってくる「巳の日」を選んで、神社にお参りするといいとされています。宝くじ売り場では、「本日巳の日」と張り紙を出しているところもあるそうです。この「巳の日」の中でも特に金運に良いとされるのが、六十日に一度の「己巳(つちのとみ)の日」です。その日、各地の弁天様は多くの参拝客で賑わうとのことです騙されたと思ってやってみませんか。そうそう京都左京区鹿ケ谷(哲学の道)にある大豊神社は、狛犬ならぬ狛ねずみで有名ですが、実は医薬の祖神である少彦名命も合祀されており、非常に珍しいとぐろを巻いた狛へびがあります。本殿に向かって右側の蛇が白色で、口を開けています。左側の蛇は黒色で、口を閉じており、ちゃんと阿吽の姿をして。今年の心霊スポットですから、是非金運上昇のお参りに行ってみてください。

 ついでに蛇に関する質問です。みなさんは蛇が出てくることわざをいくつあげられますか。「蛇足」は中国の故事です。「竜頭蛇尾」は期待外れの感があります。「藪蛇」は「藪をつついて蛇を出す」のことで、やらなくてもいいことです。「蛇に睨まれた蛙」は身がすくんで動けなくなります。「蛇の道はへび」は同類には同類のことがわかるという意味です。そうそう「虹」が虫偏になっているのは、虹が蛇に見立てられたことによります。そもそも昔は爬虫類と昆虫の区別もできなかったので、蛇も蛙も蜥蜴も蟹も蜘蛛も蚯蚓も蝙蝠も蛤も蛸も蝦も虫偏になっています。というより虫偏は昆虫以外のものも含んでいたのです。

 もう一つ、みなさんは「巳」「已」「己」の違いがわかりますか。三つとも類似していますが、よく見ると縦棒が上までか中までか下までかで読みも意味も違ってきます。「巳」は音読みが「シ」で訓読みが「ミ」です。これが干支の「へび」ですね。「已」は音読みで「き」、訓読みで「すでに」です。三つ目の「己」は音読みが「き・こ」で、訓読みは「おのれ」になります。巳年に関する基礎知識、是非授業で活用してください。質問・お便りなども待っています。