「日学教師の会」応援コラム 吉海直人
日本語日本文学科出身で、現在国語あるいは日本語の教師として働いている卒業生が少なくないことがわかりました。それなら教師間の交流があった方がいいとのことになり、「日学教師の会」が発足しました。といっても職場は忙しいので、目立った活動は望めそうもありません。
そこでせめてコラムで、教師のみなさんを応援できないかと考え、掲載を始めることにしました。少しでもみなさんのお役に立てれば幸いです。
吉海直人(よしかい・なおと)
1953年長崎生まれ。國學院大學大学院博士後期課程修了。博士(文学)。同志社女子大学名誉教授。専門は平安時代の物語及び和歌の研究。『百人一首の正体』ほか著書多数。
68 「米」をめぐって(番外17) 2026.6.2
令和7年のトピックスとして、「米」の価格の異常な値上がりがあげられています。令和8年になっても価格は高止まりしていますね。そこであらためて「米」について考えてみることにしました。
「米」という漢字にたいした問題はありません。読み方にしても一般的な漢字程度だからです。まず音読みとして「ベイ」と「マイ」があります。「ベイ」は漢音で「マイ」は呉音ですから、むしろ平凡だといえます。訓読みにしても「こめ」と「よね」ですから、特別な読みは見当たりません。この四つが「米」に付与されている読みのすべてです。他に「亜米利加」「米利堅」(ともにアメリカのこと)の場合だけ「め」と読ませています。
「米」の意味にしても単純です。ご承知のように「米」という植物はありません。「米」の種だから「米」ではないのです。「米」は「稲」の種子ですが、それを単純に「米」と称しているわけではありません。「稲」の種は「籾」です。この「籾」の外皮を取り除いたものを「玄米」といいます。取り除かれた外皮は「籾殻」(もみがら)です。これを「穀摺り」といいます。その「籾殻」を取り除いたものが「米」ということになります。自然のものではなく、「稲」の種子を加工したものが「米」なのです。
その「玄米」は保存に適しているし、ビタミンなども豊富に含まれているのですが、現在私たちが日常食べているのはこの「玄米」ではありません。「玄米」をさらに精米して糠層を削り取ったものが「白米」です。ここで「玄米」と「白米」という漢字を御覧ください。「玄」は黒ですが、「玄米」はそんなに黒いわけではありませんよね。この「玄」は皮がついたままという意味です。その皮を剥いだものが白米です。こちらは確かに白いですね。
一方、取り除かれたのが「糠(ぬか)」ですが、「糠」には「米」の九五%もの栄養分が含まれているとされています。実のところ私たちは「米」のカスを食べているのです。その象徴として知られているのが脚気という病気でした。日本人が玄米を食べていれば、ビタミンB1は十分摂取できますから、脚気にかかることはありません。ところが明治以降の軍隊で、「白い飯を食べられる」というキャッチフレーズで軍人を募集したことから、かえって軍人に脚気が蔓延したという苦い歴史がありました。これはある種の贅沢病ともいえます。
ところで「こめ」と「よね」はどちらが古いいい方なのでしょうか。調べてみると「よね」は『土佐日記』に用例が出ていることがわかりました。「よね」の語源に関しては、「いね→いな→よな→よね」と推移したとする説があります。一方「こめ」は『日本書紀』皇極2年10月条の歌謡に「岩の上に小猿渠梅焼く渠梅だにも食げて通らせかまししのをぢ」とあって、この「渠梅」を「こめ」と訓読しているので、資料的には「こめ」の方がずっと古いことになります。
「よね」と「こめ」の違いとしては、「よね」が雅語的・文章語的性格を有しているのに対して、「こめ」は実用語的・口語的な性格が強かったという説もあります。その「こめ」の語源としては、「小目・小実」あるいは「込め」説があります。稲の種子が小さいから「小め」というわけです。また「込め」というのは儀式的で、魂が籠っていると考えられたのでしょう。
漢字特有の画数からは、「米寿」という表現が考案されています。これは読みではなく「米」が「八+十+八」から形成されていることによります。同様に「八木」にもなりますが、これは日本人特有というか日本語特有の言語遊戯といえます。
「米」にはもう一つ特筆すべきことがありました。それは音の類似によって、西洋のメートルを「米(めい)」に置き換えたことです。これは明治15年にメートル方が採用されたことで、従来の尺貫法と共存したことによります。それによって「粍」(ミリメートル)・「糎」(センチメートル)・「粁」(キロメートル)という国字も作られました。その応用で「1メートル」から「一命取る」という掛詞まで作られています。戦後の昭和21年に当用漢字が制定されたことで、「m・㎝」などの記号が用いられるようになり、それによって記号としての「米」の出番はなくなってしまいました。
67 「ひく」と「しく」の違いについて(日本語17) 2026.5.26
みなさんに質問です。布団は「しく」ものですか「ひく」ものですか。そんなこと簡単、蒲団は「敷く」に決まっている、という声が聞こえてきそうです。確かに畳んであったものを広げるのですから、「敷く」の方がよさそうに思えます。「しき」布団はあっても「ひき」布団はありませんよね。でも案外ややこしいことがあるようです。というのも、「しく(敷く)」と「ひく(引く)」の使い分けが、地域(方言)によって時代によって異なっているからです。
たとえば、質屋は「しちや」が正しいはずですが、長崎で生まれ育った私は、小さいころ「ひちや」と口にしていました。七五三は「ひちごさん」、「七月」は「ひちがつ」です。それに類似する例として、「しつこい・ひつこい」・「したい・ひたい」・「おしたし・おひたし」・「ももしき・ももひき」などがあげられます。
これが油だと、「しく」より「ひく」の方が優勢です。というより引き伸ばすのであれば「ひく」の方が正しいという意見もあります。明鏡国語辞典などでは、油は「引く」を正解としています。こうしてみると、一概に「し」が正しくて「ひ」が間違いだとは断言できそうもありません。むしろ地域差を考えると、関西では「ひ」が優勢で、関東では「し」が優勢という傾向が見えてきます。これは表記というより地域の問題でもあったのです。もちろん関東でも「ひく」派はいるし、関西にも「しく」派はいます。
こういった場合、大抵は江戸時代において、関西と関東で使われ方が異なっていた可能性が高いようです。よく引用される『浪花聞書』という江戸時代の方言辞典には、「ひく 蒲団抔(など)敷をひくといふ」とあって、明らかに大阪方言としてとらえられていることがわかりました。それに対して関東の人は、「ひ」がうまく発音できなかったので、「し」と発音したともいわれています。流れとしては「ひ」(関西)から「し」(関東)へと変遷したことになります。
もちろん「しく」と「ひく」の地域的な違いも見逃せません。しかもそれは単純ではありません。例えば車(交通事故)だったら、「しかれる(敷)」のでしょうか「ひかれる(轢)」のでしょうか(「はねられる」もあります)。亭主は女房の尻に「しかれる」のでしょうか「ひかれる」のでしょうか。これがカーテンや幕なら、「ひく」とはいっても「しく」とはいいませんよね。「ひく」にも引っ張る以外に広げる・引き延ばすという意味があったのです。
ではもっと古い例をあげてみましょう。平安時代の歌人・伊勢の家集に、
前栽うゑさせたまひて砂子ひかせけるに、家人にもあらぬ人の砂子おこせたれば
荒磯海の浜にはあらぬ庭にても数知られねば忘れてぞ積む
とあって、詞書に「砂子ひかせける」と出ていました。これは前栽(庭)に砂を敷き詰めることですが、京都ですから「しく」ではなく「ひく」とあります。これは決して伊勢が使い方を間違えたのではありません。「敷く」と「引く」は平安時代から混沌としていたのです。というより、「ひく」にも一面に広げるという意味がちゃんと備わっていたので、混同されやすかったのでしょう。
いかがですか。「しく」と「ひく」が一筋縄ではいかないこと、おわかりになりましたか。これは単なる地域的な発音の違いだけでなく、歴史的な用法の混同まで入り混じっていたのです。それが関西(旧)と関東(新)に別れて今も残っているというわけです。
なお別な言い方で「床をとる」があります。これについては、かつて外国の女性が旅館に泊まった際、仲居さんから「お床をとりましょうか」といわれ、驚いて「ノーサンキュー」と答えたという笑い話があります。外国の女性は「男をとりましょうか」と勘違いしたのです。
66子規「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる」(近代17) 2026.5.19
正岡子規は近代俳句に心血を注いだ人ですが、同時に近代短歌の確立もめざしていました。そのために子規がとった手法は、『古今集』を代表とする伝統和歌との訣別(貫之への攻撃)でした。それが膨大な『歌よみに与ふる書』に結実しています。
その子規の代表歌としては、
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
などが教科書にも掲載されていますが、ここでは私の好きな、
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる(竹乃里歌)
を取り上げてみます。まずこの歌を口にして気づくのは、上の句に格助詞「の」が三回(下の句に主格の「の」一回)用いられていることです。また「薔薇」の「ば」、「針」の「は」、「春雨」の「は」という繰り返しも心地よいですね。これによって全体が流れるようなリズムを形作っています(句切れなし)。
ただし「の」が重なっていることで、「くれなゐの」がどこにかかるのか多少わかりづらくなっています。というか違和感さえ覚えてしまいます。普通「紅」といったら、薔薇の花を思い浮かべますよね。というより薔薇の歌といったら花の美しさがメインになるはずです。そのため「くれなゐの」は「薔薇」に掛かると早とちりしそうになります。しかし子規は予想に反して花を詠じてはいません。
この歌は明治33年4月21日に詠まれています。薔薇の開花は夏ですから、季節が微妙にずれています。それなら時期的に蕾はあってもよさそうですが、蕾も詠まれていません。これを踏まえると、むしろ花を主題にしないで、本来なら誰も見向きもしないであろう「薔薇の芽」そして「針(トゲ)」に焦点を当てているところが、この歌の特徴といえそうです。
もっとも「バラ」の語源は「いばら」のようですから、いばら(針)も薔薇の重要な要素であることは間違いありません。「二尺」という数値も珍しいですね。一尺は三十センチ強ですから、だいたい六十センチほどになります。春の成長期とはいえ、かなり長く伸びている感があります。それだけではありません。伸びたばかりの若い薔薇の茎に、硬くて鋭いとげは不似合いです。柔らかみを帯びているトゲというと、もっと小さな目立たないものではないでしょうか。「針」というのがうぶ毛のような状態だとすると、これは尋常な歌いぶりではありません。
おそらく子規は病の床に臥しながら、庭に生えている薔薇の成長を見守っていたのでしょう。従来、子規は写生を得意としたといわれていますが、この歌を見る限り、必ずしも写生に徹しているとは思えません。生命力あふれる薔薇への感動と羨望のまなざしには、虚構も含まれているようです。試しに同じ頃の薔薇と比較してみてはいかがでしょうか。おそらく蕾はついているに違いありません。それを確かめた上で写生云々を再検討してください。
ところで『子規全集』(講談社)によると、この歌が新聞「日本」に発表された際(明治33年5月8日)、この歌は次のようになっていたそうです。
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針くれなゐに春雨のふる
これを見ると「やはらかに」が「くれなゐに」になっています。それが子規自筆の『竹乃里歌』では、「くれなゐに」を墨で消し、その横に「やはらかに」と書き込まれています。子規は芭蕉と同じように、自らの歌を推敲していたのです。この推敲によって、紅色の針は消えましたが、その代わり掛詞的な「やはらかに」が確立しました。その分、写実からは遠ざかったのではないでしょうか。
その薔薇の芽に春雨が降り注いでいます。この雨は決して激しくもなく、冷たくもありません。むしろ温かみさえある静かな小降りの雨でした。どうやら「やはらか」なのは薔薇の針だけでなく、「春雨」そのものもやわらかいようです(決して針のように突き刺す雨ではありません)。あるいはうぶ毛のような針の先に水滴が付いているのかもしれません。大胆にいえば、擬人化された「春雨」が柔らかな、そしてささやかな薔薇の針にそっと触れているような感覚を覚えます。
65「葵祭」と『源氏物語』(古典17) 2026.5.7
5月15日は葵祭の当日です。みなさんはその葵祭について、どれくらい知っていますか。面白いことに、ほとんどの人は現実の葵祭ではなく、『源氏物語』葵巻に描かれた葵の上と六条御息所との車争いによって、副次的に葵祭のことを認識しているのかもしれません。そのためとんでもない勘違いをしている可能性があります。
そもそも葵祭は平安朝の初期、弘仁元年(810年)に始められた賀茂神社(今は上賀茂神社と下鴨神社)の例祭です。嵯峨天皇が伊勢の〈斎宮〉にならって賀茂の〈斎院〉を設け、自身の皇女・有智子内親王を初代斎院に任じたのがその起こりとされています。その後、斎院制度は廃絶してしまいました。現在は観光行事の要素が付加され、賀茂神社の祭礼として行なわれています。ですから皇族の斎王(斎院)に代って、民間から斎王代が選ばれています。それでも京都三大祭(葵祭・祇園祭・時代祭)の一つとして賑わっています。また今でも宮内庁から職員(勅使)が派遣されていることで、日本三大勅祭の一つ(春日祭・石清水祭〈南祭〉・葵祭〈北祭〉)にもなっています。
『源氏物語』葵巻は、この葵祭が舞台になっています。巻頭で桐壺帝が譲位し、弘徽殿腹の東宮(朱雀帝)が即位したことで、新たに斎院が卜定(ぼくじょう)されました。新帝最初の祭ということで、例年より賑やかに行なわれたようです。その目玉商品は、当時宰相兼右大将だった光源氏が御禊(ぎょけい)の行列に供奉(ぐぶ)することでした。これは行列を盛り上げるための特別なはからいなのですが、大将という重々しい源氏の職掌からすれば、格下の役目を仰せつかったことになります。光源氏にとってみれば、素直に喜べる役目ではありません。そこに朱雀帝新体制(右大臣一派)による源氏の臣下としての据え直しが、密かにそして確実に行われていることが読み取れます。
光源氏に連動して、源氏に従う随身に関しても、右近の将監(じょう)が任命されています。実はこれも格下の役目であり、必ずしも名誉なものではありませんでした。この右近の将監は、光源氏の分身として機能させられているように読めます。そういった政治的なかけひきを背景に含みながら、斎院の御禊が表向き盛大に行われているのです。この御禊という儀式は、正式には賀茂川で行われるものですが、現在は賀茂神社内の御手洗川(池)で行われています。それが終わった後、斎院一行は一条大路を通って紫野の斎院に入ります。その行列を見物しようと、一条大路には立錐の余地もないほど物見車が立ち並びました。
今回の行列のメインは、新斎院ではなく光源氏です。美しい源氏の姿が見られるとあって、遠方から見物客が押し寄せています。源氏とかかわりのある女性達も、競って見物にやってきました。後からやってきた葵の上一行は、準備不足で場所の確保もしていませんが、そこは権勢を誇る左大臣家の地位と権力に物を言わせ、身分低そうな牛車を無理やり立ち退かせます。たまたまそれが身をやつして見物に来ていた六条御息所の網代車(あじろぐるま)だったのです。これが有名な葵の上と六条御息所との「車争い」の真相です。要するにこの「車争い」は、正しくは「車の所争い」(場所取り)なのです。しかも「車争い」とは名ばかりで、実際は葵の上方による一方的な乱暴狼藉でした。それを正妻と愛人(妾)の身分差の喩と見ることも可能でしょう。この時の屈辱的な敗北が、御息所の生き霊を誘発する契機となり、物語は葵の上の死へと大きくハンドルを切ることになります。
ところで最初に述べた勘違いですが、この有名な「車争い」が起こったのは、決して葵祭の当日ではありません。それは祭以前の午(うま)または未(ひつじ)の日に行われる斎院御禊(ぎょけい)の日のできごとでした。それにもかかわらず、車争いを祭の当日と勘違いしている人が少なくありません。では肝心の祭の当日はというと、斎院一行は紫野の斎院を出発して賀茂神社へと向かいます。その日、光源氏はオフで、公的な仕事はありません。そこで紫の上を誘って祭見物に出かけます。この時、源氏も場所取りをしていなかったのですか、幸いなことに老女源典侍(げんのないし)から絶好の場所を譲ってもらいます。その際、源氏の恋人を気取る源典侍は、源氏が誰か特別な女性(紫の上)と同車していることを咎める歌を詠んでいます。
先の御禊の日の「車争い」が、葵の上と六条御息所の対立であったのに対して、祭の当日は、源典侍と紫の上の対立(もう一つの車争い)が描かれていることになります。この場合、紫の上の素性は秘められたままですから、紫の上が勝ったことになります。あまり目立ちませんが、このことは重要な要素の一つでした。というのも「葵」という植物は、単に祭りに必要なだけでなく、「逢ふ日」という掛詞としても機能しているからです。
そう考えると、葵巻のもう一つのクライマックスは、後半に描かれている光源氏と紫の上の新枕ということになります。これこそがもう一つの「逢ふ日」なのです。これによって、源氏の妻の座が葵の上から紫の上へ引き継がれたことになります。『源氏物語』ではこういった掛詞の技巧がわからないと、物語を深く味わうことができないのです。
64「立夏」について(番外16) 2026.4.28
二十四節気の一つである「立夏」は、「立春」から7番目にあたります。太陽黄経で見ると、0度の「春分」と90度の「夏至」の中間ですから、45度と定められています。暦では5月5日の端午の節句と重なることが多いのですが、必ずしも5日に固定しているわけではありません。閏年との関係で、例えば2024年は5月6日が「立夏」でした(2026年は普通に5月5日です)。
この日から「立秋」の前日までを夏としています。ただし夏の定義は単純ではありません。というのも、旧暦では4月から6月までの3か月が夏とされていたからです。この場合、夏の始まりは「立夏」とは日付が異なります。よく質問されるのは、「立夏」と「初夏」は同じなのか違うのかです。みなさんはどう思いますか。
「立夏」は二十四節気の一つでしたね。それに対して「初夏」は旧暦の用語です。夏の三か月を「初夏・仲夏・晩夏」と分けた最初の月(4月)のことが「初夏」に当たります(「首夏」ともいいます)。二十四節季の「立夏」は15日間ですから、ひと月ある「初夏」の半分の日数になります。その始まり部分は重なりますが、「年内立春」と同様に「立夏」は4月1日の前にも後にもなります。
この誤差というかずれで一番ややこしいのは、ほととぎすの初声です。旧暦でいえば4月1日になって聞くのが「初声」ですが、二十四節気を基準にすると、4月前の3月下旬に初声を聞くことになります。例えば大伴家持は『万葉集』で、
卯の花の咲く月立ちぬほととぎす来鳴きとよめよふふみたりとも(4066番)
と詠じていますが、この歌には「四月一日、掾久米朝臣広縄の館にして宴する歌四首」という題詞があります。一見すると4月1日(夏)になったのだから、ほととぎすも来て鳴いてほしい歌っているように見えます。この年の「立夏」は4月2日でした。そこで家持は、
居り明しも今宵は飲まむ霍公鳥明けむ朝(あした)は鳴き渡らむぞ(4068番)
と詠じています。この歌の左注には「二日は立夏の節に応(あた)る。故、明旦鳴かむといふ」とあります。家持は1日の夜は居明して、「明けむ朝」つまり暁・明旦(翌日)に「ほととぎす」が鳴き渡る声(初声)を聞こうと歌っているのです。「今宵」(今夜)と「朝」(暁)の境目(日付変更時点)は午前3時でした。要するに1日の夜が午前3時を過ぎると2日の暁になるというわけです。ですから正確には1日ではなく2日の暁に初声を聞こうとしているです。
持統天皇の、
春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山(新古今集175番)
にしても、『新古今集』夏部の巻頭歌ですし、しかも夏の始まりを表す「夏来」が用いられているので、『万葉集』の配列意図はわかりませんが、少なくとも『新古今集』では「立夏」の歌として配されていることになります。近代短歌として有名な吉井勇の、
夏は来ぬ相模の海の南風にわが瞳燃ゆわがこころ燃ゆ(酒ほがひ)
も「夏は来ぬ」ですね。ところで「立夏」の頃の時候の挨拶としては、「藤花のみぎり」「青葉の候」「風薫る季節」などがあげられます。俳句の季語としては「夏立つ」「夏来たる」「夏に入る」「夏めく」「夏は来ぬ」です。「立夏」は端午の節句と重なるだけでなく、直前(5月2日)に「八十八夜」が来ます。また直後には「母の日」(第2日曜日)もあります。農家では田植えも始まります。
この頃は花も豊富で、ツツジ・あやめ(菖蒲)・藤・卯の花・スイートピー・カーネーションなどが咲き乱れています。食べ物としては「新じゃが・タケノコ・わかめ・あさり・初ガツオ」などもあげられます。まだそんなに暑くないので、過ごしやすい季節です。
63「御」の読み方(日本語16) 2026.4.21
漢字にはいろいろな読み方がありますよね。では質問です。みなさんは「御」という漢字の読みをいくつ知っていますか。これは名詞の上に付いて敬意(尊敬)を表す接頭語とされています。普通に読めば「お」・「おん」・「ご」・「ぎょ」・「み」の五つでしょうか。この中でもっとも頻度が高いのは「お」でしょう。「御家流」(おいえりゅう)・「御室」(おむろ)など普通に「お」と読んでいます。「御」は中国の漢字ですが、敬語は中国よりも日本の方が多用かつ複雑なので、こんなややこしい問題が生じているのです。
この「御」の場合、読み方がたくさんあるということよりも、即座にどう読んだらいいのか迷うことが少なくありません。早い話、「お」と読むのか「ご」と読むのか迷ったことはありませんか。例えば「時間」についたら「お」(お時間)なのに、「両親」だと「ご」(ご両親)ですよね。何がどう違うので「お」になったり「ご」になったりするのでしょうか。読み方にそれなりの法則や規則性はあるのでしょうか。
一般的に、「お」は女性的(和文的)で、「ご」は男性的(漢文的)とされています。この説明ですべてがきれいに分けられればいいのですが、そうはいきません。というのも「御返事」などは、「お」でも「ご」でもどちらでも通用しているようです。必ずどちらかに決まっているのではなく、どっちでもいいものまであって、だからやっかいなのです。
ではちょっと難しい古典の読みの問題です。「御衣」とあったら、みなさんはどう読みますか。「おんぞ」ですか「みぞ」ですか、それとも「ぎょい」ですか。これはどれも間違っていません。調べてみると、平安時代は古式で「おほんぞ」と読まれていたものが、中世以降「おんぞ」になったとされています。「御中」は「おんちゅう」ですね。
有名な『源氏物語』冒頭の「いづれの御時」など、やはり古式で「おほんとき」と読まされました。ということで、古典ではまず「おほん」「おん」と読んでみるのが無難のようです。もちろん「みぞ」と読んでも決して間違いではありません。『古事記』や『万葉集』にまで遡ると、これを「みけし」と読ませている例まであります。古典といっても決して一律ではなく、どうやら時代的な読みの変遷も考慮しなければならないようです。
それだけでなく身分差とか地域差も関わっています。たとえば「御室」など、古典では「みむろ」とも読んでいます。仁和寺は「おむろ」ですが「神奈備の」は「みむろ」に続きます。体温計のオムロンは「おむろ」にあったことでそう命名されました。では「御髪」はいかがでしょうか。これは「おぐし」とも読むし、「みぐし」とも読みます。逆に古典で「おんかみ」という読みは見たことがありません。
さて最後に残った「ぎょい」ですが、これはやや特殊で、主に天皇のお召し物に限って用いられています(最高敬語)。漢語調でもあり、『源氏物語』須磨巻に出ている「恩賜(天皇から賜った)の御衣は今ここにあり」など、菅原道真の漢詩を引用しての表現なので、どうしても「ぎょい」と読まなければなりません。これはたった一例だけの特殊な読みです。現在でも「新宿御苑」は「ぎょえん」ですが、「御所」は「ごしょ」ですね。
「御酒」は「おさけ」「ごしゅ」とも読みますが、普通は「みき」と読ませています。なお一番わかりやすそうな「おんころも」という読みは出てきません。ただし仏教関係用語の場合は、まれに「おんころも」と読ませることがあるようです。また和歌でも「我がころも手は」と読んでいますね。ついでながら「御意」(貴人のお考え)も「ぎょい」と読んでいます。ということで、「御」をどう読むかはなかなか難しく、簡単な法則は見つかっていません。
62釈迢空「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。」をめぐって(近代16) 2026.4.14
これは釈迢空(折口信夫おりくちしのぶ)の代表作とされている歌で、中学や高校の国語の教科書にもしばしば掲載されています。ただしこの句読点付きの歌には、大きな問題が二つありました。そのことは教室では教えられていないようなので、それについて考えてみましょう。
第一の問題として、作詞家として著名な武島羽衣が、この歌を不当に貶めていることがあげられます。それに対して折口は、「去七尺状」を書いて反論しています(『折口信夫全集第廿五巻』中央公論社)。「去七尺」というのは「三尺去って師の影をふまず」という諺を踏まえた表現です。もともとは中国の僧道宣が著した『教誡律儀』にある一節とされています。それが日本に伝来して「三尺下がって」あるいは「七尺去って」という表現として定着したのです。
折口が何故この表現を用いたかというと、武島は國學院でも教鞭を執っており、当然折口にとっては師に該当する存在だったからです。その師に教え子が反論するのですから、こうせざるをえなかったのでしょう。折口は「葛の花」歌に関する武島の批判に対して、主に二点から反論しています。武島が、
色だけが惜しいといふ事になる。白くさいた葛の花のふみしだかれてゐるのが惜しいといふ事であらうから、かやうに曰ったのでは適当してゐない。
心なく山道ゆきし人あらむふみしだかれぬ白き葛花
などなければならぬ。
と述べたことに対して、折口はまず「あたらし」という言葉の用法について、
あたらしはなる程、あつたら惜しいという語に俤を残してゐるやうな用語例の続いた時代が長かつたのは勿論です。だが、「新し」と言ふ用語例を用ゐても間違ひでもなく、風雅でないといふこともありません。
と述べ、武島が「あたらし」を惜しいと解していることについて、自分は「新しい」の意味で用いていると反論しています。
さらに武島が葛の花の色を「白」としているのに対して、折口は、
白い葛花など言ふものは、ある訣のものでは御座いません。葛の花は、古典にもよく出てまゐりますのに、あなたは紫に咲くことをご存じなかつたのですか。先生、そつと申しあげます。藤には白藤もあります。きつと其思ひ違ひでせう。
と慇懃無礼ながらも痛烈に武島の間違いを指摘しています。これが一つ目の問題です。
もう一つは折口がこの歌を二つの雑誌に掲載していることです。しかもその二つを見ると、この歌を詠んだ場所が異なっているのです。まず『改造』昭和13年11月号に、折口は「島山―壱岐にてー」と題した11首の歌を発表しています。この連作の冒頭にあったのが「葛の花」でした。折口は大正10年の夏に沖縄を旅行し、その帰途に博多から壹岐に渡っており、その壱岐の山の中で葛の花を見つけて詠んだというわけです。
ところが「改造」に掲載される一か月前、「日光」という短歌誌の昭和13年10月号に、折口は「奥熊野」という題で11首の歌を掲載しており、その2首目が「葛の花」でした。これは山本健吉氏によって発見・報告されました。要するに折口は、何故か2つの雑誌に重複して「葛の花」歌を掲載しており、それだけでなく歌を詠んだ場所を、片や壱岐、片や奥熊野としているのです。そのため壹岐と奥熊野とどちらが正しいのかというややこしい詠地論争が巻き起こってしまいました。最近は山本氏の主張が取り入られて、奥熊野で詠まれたとする説の方が優勢のようです。
しかしながら折口自身は、
壱岐は島でありながら、伝説の上では神代の一国である。それだけに海としても個性があり、山としても自ら山として整うた景色が見られた。蜑の村に対して、これは陸地・耕地・丘陵の側を眺めたものが集まつてゐる。山道を歩いてゐると、勿論人には行き逢はない。併し、さういふ道に、短い藤の花房ともいふべき葛の花が土の上に落ちて、其が偶然踏みにじられてゐる。其色の紫の、新しい感覚、ついさつき、此山道を通つて行つた人があるのだ、とさういふ考へが心に来た。
(『折口信夫全集第丗一巻』自歌自註・短歌啓蒙歌評)
などと述べているのですから、壱岐説も捨てがたいですよね。山本氏が奥熊野説を提起したのが昭和40年代ですから、もはや折口本人に確認することはできませんでした。あるいは折口は、奥熊野で詠んだ歌を、むしろ壱岐で詠んだとする方がいいと判断(推敲)したのでしょうか。
61漢詩「春眠暁を覚えず」をめぐって(古典16) 2026.4.7
今回は孟浩然の「春暁」という漢詩(五言絶句)を取り上げます。昔は必ずといっていいほど教科書に掲載されていたので、暗記している人も多いはずです。その第一句が「春眠暁を覚えず」でした。春は暖かくて心地よく眠れるので、朝なかなか起きられないというのは、現代にも通じますね。
最初に注意すべきは、「暁を覚えず」の意味です。たいていの本は「暁」を「夜明け」と訳しています。しかし古典の「暁」は午前三時過ぎのことですから、「暁」から夜明けまでには二時間以上の時間があります。当然春でも外はまだ真っ暗です。午前三時というのは日付が変更される時刻であり、原則として翌日になるという意味になります。
もっと大事なことがあります。中国の都の役人は、午前三時前に起きて仕度を整え、午前三時きっかりに宮城(役所)入りしなければなりませんでした。「暁」は出勤時間だったのです。だからといって「暁を覚えず」は、決して寝過ごして遅刻したという意味ではありません。詩からも慌てた感じは伝わってきませんよね。大事な出勤時間を気にしなくていいのは、作者が役人ではなかったからです。実は盛唐時代の孟浩然は、科挙(中国の官吏登用試験)に合格できませんでした。自由人のようでありながら、その奥には役人になれなかった屈折した思い(劣等感)が含まれているのでしょう。そう考えると、なんとなくこの漢詩のニュアンスが今までとは違ってきますね。
では第二句の「処々啼鳥を聞く」はどうでしょうか。一体、どんな鳥がさえずっていると思いますか。これがもし「鶏」ならば、「鶏」は暁を告げる鳥ですから、やはり午前三時に鳴くはずです。しかしここは寝坊して聞いているのですから、既に明るくなる頃に鳴き始める雀などかもしれません。第三句の「夜来風雨の声」(転句)は、時間的に過去(昨夜)に遡っています。なお「夜来」の「来」は語調を整えるための助辞なので、「来る」という意味はありません。夜の間ずっと雨風の音が聞こえていたというのです。
第二句で鳥の鳴き声が聞こえるとあるのは、既に雨が上がっているからでしょう。ここで考えてみてください。ちょっと変ではないですか。昨夜熟睡していたのなら、そんな雨風の音など耳に入るはずはありません。それがずっと聞こえていたというのなら、昨夜はほとんど眠れなかったことになります。ひょっとしたら暁近くにようやく眠りについたのかもしれません。
それに続く第四句は、「花落つること知る多少」です。この「花」はどんな花でしょうか。雨風によって散らされるのだから、日本人なら即座に「桜」と答えるはずです。ですが中国なので、「桜」はふさわしくありません。そこで次に「梅」が浮上します。これなら中国にもあります。ただし「春暁」というのは、まだ肌寒い早春(梅の時期)ではなく、ぽかぽかとした晩春を指すようなので、季節的には「桃」の方がふさわしいかもしれません。
末尾の「多少」は曲者です。日本では、「多少」といえば一般に少ないニュアンスで用いられます。昔はこれを疑問と見て、どれくらい散ったのだろうかと訳していました。最近は多いことを前提として、たくさん散ったことだろうと推量風に訳しています。時代によって場所によって解釈が変わるのです。みなさんはどう教わりましたか。
もっとも花がたくさん散ったかどうかは、外(庭)を見ればすぐわかります。ところが作者は床に入ったままでした。雨風の音も鳥の鳴き声も、みな聴覚に頼っています。目を覚ましたまではいいのですが、起き上がって外を見ようともしていません。それが春のもの憂さ(アンニュイ)なのかもしれませんね。
最後にこの漢詩の文学的な訳を二つ紹介しておきます。一つは土岐善麿の訳詩です。
春あけぼののうす眠り 枕にかよう鳥の声
風まじりなるよべの雨 花散りけんか庭もせに
「うす眠り」とか「枕にかよう」というのは見事な表現です。「庭もせに」というのは、「庭も狭しとばかりに」なので、花がたくさん散ったと見ていることがわかります。
もう一つは井伏鱒二の訳詩です。
春の寝覚めのうつつで聞けば 鳥の鳴く音で目が覚めました
夜の嵐に雨まじり 散った木の花いかほどばかり
「いかほどばかり」というのは疑問の意味です。漢詩の訳というのは、ここにあげたようにその訳自体が作品としてすばらしくなければ話になりません。なお、このコラムは今年の私立岡山高校の入試問題に使われたことを報告しておきます。
60 本名と号の組み合わせば不可!(番外15) 2026.3.31
小学生向けの新聞から原稿を依頼され、文章の中で浮世絵の絵師を「安藤広重」と書いたところ、即座に編集者から「歌川広重」にしてくださいというダメ出しが入りました。私は「東海道五十三次」の作者は「安藤広重」と覚えていたのですが、なんと今の教科書では「歌川広重」に統一されているのだそうです。みなさんはご存じでしたか。
それというのも、安藤は本名で広重は号(ペンネーム)だから不適切だとのことです。もし本名で呼ぶのであれば安藤重右衛門が正しく、号で呼ぶのなら「歌川広重」(一立斎広重)が正しいというわけです。それはそれで理に適っていますが、では夏目漱石・森鴎外・島崎藤村・室生犀星などもみんな間違いなのでしょうか。どうやら本人がそう名乗っていればいいのであって、本人が名乗っていない名称は使わない方がいいということのようです。屁理屈のようにも聞こえますが、要するに安藤広重は本人が使っていたものではないというわけです。
これはなにも広重に限った話ではありません。古典文学史では基礎教養の一つである『南総里見八犬伝』の作者である滝沢馬琴も間違いだとされました。理由は広重と同じで、本名は「滝沢興邦」で、号が「曲亭馬琴」だからです。実際、「曲亭馬琴」とは名乗っていますが「滝沢馬琴」とは名乗っていないのです。どうもこれは文科省の指導というより、近世文学研究者の主張ではないかと思われます。
古典文学史で最も話題になったのは、『徒然草』の作者である兼好でした。かつては安易に「吉田兼好」で済ませていましたが、どうも「吉田」はふさわしくないということで、「卜部兼好」あるいは「兼好法師」が正解になっています。一説には吉田神道家が兼好の知名度を利用して、「吉田兼好」という名を意図的に広めたとされています。要するに兼好は、生前に一度も「吉田兼好」とは名乗っていなかったからだめなのです。ややこしいことに、出家すると法名に変わりますが、兼好は法名も「兼好」なので、卜部は「かねよし」・法師は「けんこう」と読み方で使い分けるしかありません。
ついでにもう一人、ややマイナーな「顕昭」のこともあげておきましょう。顕昭は若い頃出家した歌僧の名です。才能を認められて藤原顕輔の養子になり、六条藤家の歌道を継承しました。御子左家の俊成や寂蓮と論争もしています。そのためつい藤原顕昭と称したくなるのですが、本名と法名をくっつけるのは不適切ということで、単に「顕昭」とするのが正しいとされています。それは一方の「寂蓮」も同じで、藤原寂連ではありません。
では女性はどうでしょうか。まず古代では、結婚しても夫婦別姓でした。ですから藤原道長の正妻・倫子は、結婚後も死ぬまで「源倫子」であって、「藤原倫子」とはいわれていません(お墓も別です)。それは源頼朝と結婚した「北条政子」も同様で、「源政子」とは名乗っていません。実はその北条政子も通称でしかありませんでした。八代将軍足利義政の妻である日野富子もしかりです。日野富子は生涯「日野富子」であって、「足利富子」ではないのです。それを踏まえて「細川ガラシャ」はどうでしょうか。
ガラシャは明智光秀の娘「玉」ですから、「明智玉」が本名でした。たとえ細川忠興の妻になったとしても、細川姓を名乗ることはありません。また「ガラシャ」はキリスト教に入信したことによるクリスチャンネームです。これなど主人公の印象を強めるために、小説などで用いられたものかと思っていたら、どうやら明治以降のクリスチャンたちが、彼女の生き方を讃えるためにそう呼び始めたとのことでした。それはそれで納得できますね。正しい名前だけを正解とするのは、文学的ではないような気がします。通称でもいいじゃないですか。
59「生」の読み方、何通り知っていますか(日本語15) 2026.3.24
一つの漢字には、複数の読み方があります。それは漢字に音読みと訓読みの二つがあるからです。もちろんそれだけではありません。音読みにはさらに漢音・呉音・唐音など複数の読みもあります。また訓読みにもいくつかの読みがあります。さらに漢字が二つ組み合わされて熟語になることで、どうしてそう読むのか説明(分解)できない読みまで生じてきます。これが日本語の難しいところ(面白いところ)でもあります。
中でも「生」という漢字には、易しい漢字なのに数え切れないほど多くの読みがあります。もし漢字の中で一番読みが多いものは何かと尋ねられたら、私は躊躇なく「生」をあげます。では、あなたは「生」の読みをいくつあげられますか。ここで一度コラムを見るのをやめて、思いつくだけ読み方を書き出してみてください。じっくり考えれば、十通りくらいの読みはすぐに思いつくはずです。
いかがでしたか。では答え合わせをしてみましょう。まずは簡単な音読みからです。普通に「せい」(学生・生活)・「しょう」(一生・生涯)は出ますよね。それが濁音になって「ぜい」(平生)・「じょう」(誕生・往生)になったものも、ここでは違う読みとして勘定してかまいません。これで四つになりました。
次に訓読みですが、こちらの方がどうやら多そうです。動詞の活用としては「いかす」(生かす)・「いき(る)」(生残り)・「いく」(生田)・「いけ」(生簀・生花)があげられます。それに「うまれる」(生まれる)・「うむ」(生む)、「おい」(生い立ち・相生)も加えておきましょう。それから「はやす」(生やす)・「はゆ」(生ゆ)・「はえ」(毛生え薬)も思いつきますよね。これで四種類(小さくは十種類)ですから、合わせて八つにはなります。なお「生かす」は「活かす」、「生む」は「産む」とも書きます。
これだけではありません。生活の中で使っている読みとして、「うぶ」(生方・生毛)・「き」(生蕎麦・生糸・生地)・「け」(皆生)・「せ」(早生)・「なま」(生意気・生傷)もあげられます。この「なま」というのは未熟という意味です(生半可・生兵法)。さらに「なす」(生す・生さぬ仲)・「むす」(苔生す)もありますし、「なり」(生業・鈴生り)・「ぬく」(生見)などもあります。古語では「あれ」(御生れ祭)もあげられます。これで一機に十種類が増えました。あわせるともう十八通りを超えました。
それでもまだあります。「芝生」(しばふ)・「壬生」(みぶ)などは序の口です。「ぶ」は「蕨生」(わらび)にも変化しています。「生飯」(さば・さんばん)となるとかなり難読ですよね。似た読みに「福生」(ふっさ)もあげられます。これでまた五つ増えました。
だんだん読みが微妙になってきます。「麻生」(あそう)・「羽生」(はにゅう・はぶ)はいいとして、「生粋」(きっすい)・「弥生」(やよい)・「桐生」(きりゅう)・「芹生」(せりょう)・「宿生木」(やどりぎ)などは二つの漢字が連動していて、どこで切れる(分ける)のかもはっきりしません。でもこれで五つ増えました。
さらに名前の読みとなると実に豊富で、「あり」・「おき」・「すすむ」・「たか」・「のり」・「ふゆ」などと読ませています。塩野七生は「ななみ」でしたね。男性では「お」(幹生)・「き」(雄生)も少なくありません。また「何生」と書いて 「なにがし」と読ませることもあります。これだけで七通りになります。
これが熟語になった途端、とんでもない読み方が浮上します。「生憎」(あいにく)はいかがでしょうか。古典では「生絹」(すずし)も出てきます。「生薑」(はじかみ)はまだしも、「生命」(いのち)・「晩生」(おくて)・「生計」(くらし・たつき)となったら、もうお手上げですよね。この七つは読みというより当て字みたいなものです。
いかがでしたか。「生」の読みが異常に多いこと、おわかりいただけたでしょうか(少なくとも四十二通り以上あげました)。ではその反対語の「死」の読みはどうでしょうか。奇妙なことに、「死」は「し」以外の読みが見当たりません。音が「し」で訓が「しぬ」です(「生死」は「しょうじ」)。もちろん不吉なので名前に使われることもありません。反対語でこうも違っているのです。他に読み方がたくさんある漢字を探してみてください。
〈号外〉八雲を解雇した井上哲次郎学長 2026.3.18
ハーンは松江を皮切りに、熊本・神戸・東京と職場を渡り歩いています。一番長く勤めたのが東京帝国大学の6年半でした。というのも帝大の文科大学長であった外山正一(後、東大総長・文部大臣)がハーンの大ファンだったからです。明治28年12月、その外山から帝大英文科の講師として来てほしいという連絡がありました。それを受けてハーンは明治29年9月に家族を伴って上京しました。
外山が提示したのは「月給4百円、講義は週12時間」という破格の条件でした。お雇い外国人教師だったハーンは、松江では月収百円、熊本では月収2百円でしたが、さすがに帝大ではその倍の4百円に増えています
試みに東京大学ホームページにある当時の職員の年俸を見ると、総長は3500円。文科大学学長は1800円、文科大学にいた外国人四人の教師は週に12時間の講義で、エミール・エックが1500百円、カール・フローレンツが3600円、ルートヴィヒ・リースとラファエル・フォン・ケーベルが4400円、前任のアメリカ人教師オーガスタス・ウッドが4200円とありました。年俸4800円の八雲がいかに厚遇されていたのかわかりますね。何と東大総長よりも高給であり、文科大学長外山の三倍の年俸だったのです。
実はこの時(明治29年)ハーンは日本に帰化していたので、従来のようなお雇い外国人としての高給はもらえないはずでした。それにもかかわらず学長の外山は、それを無視してお雇い外国人として招聘していたのです。ですから外山が学長の間はそれで問題なく勤められたのですが、その外山が明治33年3月になくなり、新たに学長に就任したのがあの有名な哲学者の井上哲次郎でした。
井上は八雲の給料があまりにも高額だったことから(明治34年には月収450円)、遂に八雲の解雇を決断しました。明治36六年1月15日、井上から解雇通知が八雲のもとに届いたのです。これに八雲は激怒しました。妻の節は当時の八雲のことを回想録『思ひ出の記』の中で、「ヘルンは大学を止められたのを非常に不快に思っていました。非常に冷遇されたと思っていました。〈中略〉大学には永くいたいと云う考えは勿論ございませんでした。あれだけの時間出ていては書く時間がないので困ると、いつも申していましたから、大学を止められたと云う事でなく、止められる時の仕打ちがひどいと云うのでございました。只一片の通知だけで解約をしたのがひどいと申すのでございました」と語っています。長年勤めた自分に対して話し合いもなく、紙切れ一枚で済ませようとした学長の態度を余りにも非人間的だと思ったのでしょう。
この件を知った学生たちは八雲の留任運動を起こしました。八雲の講義は学生から大変評判が良かったからです。その急先鋒は小山内薫・川田順でした。川田など「ヘルン先生のいない文科に学ぶことはない」といって法科(法学部)に転科したといわれています。また後任の夏目漱石については、「夏目なんて、あんなもん問題になりゃしない」と悪態をついています。
この件が新聞にも取り上げられて話題になったことで、さすがの井上もこれを収めるために自ら八雲の家を訪ね、俸給と講義を三分の一に減らして大学に残ってほしいと申し出ますが、八雲はそれを受け入れませんでした。その後アメリカのジョンズ・ホプキンス大学やスタンフォード大学、イギリスのロンドン大学から講義の依頼も届きましたが、八雲は海外に行くことなく、明治37年3月から早稲田大学で週4時間の講義、年俸2000円というこれまた破格の好条件で働きました。この人事は、どうやら早稲田の在学生たちが八雲を迎えてほしいと当局に訴えて実現したとのことです。残念ながら八雲は早稲田に移った年の九月に亡くなってしまいました。なお八雲が早稲田に赴任した一か月後、あの『怪談』が刊行されています。八雲亡き後の一家は、その印税などで何不自由なく暮らせたそうです。
ちなみに後任の漱石にも有名な話があります。漱石の妻である夏目鏡子は『漱石の思い出』の中で、「小泉先生は英文学の泰斗でもあり、また文豪として世界に響いたえらい方であるのに、自分のような駆け出しの書生上がりのものが、その後釜にすわったところで、とうていりっぱな講義ができるわけのものではない。また学生が満足してくれる道理もない」とぼやいていたと書き記しています。随分居心地が悪かったようですね。
58 子規「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(近代15) 2026.3.17
1895年(明治28年)10月のこと、正岡子規は松山から東京に戻るついでに、四日間一人で奈良見物をしています。その際、法隆寺にも足を運んだらしく、11月8日の南海新聞には「茶店に憩ひて」という前書きに続いて、「柿くへば鐘がなるなり法隆寺」という有名な句が出ています。
この句については今まで何の問題もないと思われていました。というより、子規の弟子達は誰もこの句を高く評価しなかったようです。というのも「柿くへば」と「鐘がなる」に何の因果関係も認められないので、凡作と思われていたのかもしれません。それこそが意表をつく発想という見方もできます。みなさんはどう思いますか。
ひょっとするとこの句は、俳人仲間で称讃されたのではなく、法隆寺が観光客誘致のキャッチコピーとして宣伝に利用した結果、全国に広まったのかもしれません。併せて奈良県特産の「御所柿」(甘柿)の知名度アップにも貢献しているはずです。その結果、2005年に全国果樹研究連合会は、子規が奈良を訪れた10月26日を柿の日記念日に制定しました。
ところでこの句の成立にまつわる資料が三つあります。一つはその二ヶ月前の9月6日の南海新聞です。そこに夏目漱石の詠んだ、「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」という句が掲載されているのですが、子規の句と似ていると思いませんか。そのため子規の句は、漱石のこの句を頭の片隅に意識して詠まれたのではないかといわれています。
二つ目の資料は、河東碧梧桐がホトトギス誌上でこの句を評して、「いつもの子規調であれば「柿くふて居れば鐘鳴る法隆寺」とは何故いはれなかったのであらう」と述べていることです。それに対して子規は、「これは尤もの説である。併しかうなるとやや句法が弱くなるかと思ふ」(病床六尺)と答えています。これはどうでしょうか。
三つ目の資料は子規自身が書き残した「くだもの」(『飯待つ間』所収)の中の一節です。「御所柿を食いし事」という見出しで、
やがて柿はむけた。余はそれを食うていると彼は更に他の柿をむいでいる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞えた。彼女は、オヤ初夜が鳴るというてなお柿をむきつづけている。余にはこの初夜というのが非常に珍しく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるという。東大寺がこの頭の上にあるかと尋ねると、すぐ其処ですという。余が不思議そうにしていたので、女は室の外の板間に出て、其処の中障子を明けて見せた。なるほど東大寺は自分の頭の上に当ってある位である。 (岩波文庫175頁)
と書かれています。法隆寺で柿を食べたという記録がないこと、また子規が法隆寺を見物した日は雨だったことなどから、旅館(對山楼角定)で御所柿を食べながら聞いた東大寺の鐘が、法隆寺に移されているのではないかとされているのです。実は法隆寺の鐘ではなく、東大寺の鐘だったかもしれないのです。
加えて「御所柿を食ひいし事」の前半部分に、
柿などというものは従来詩人にも歌よみにも見離されておるもので、殊に奈良に柿を配合するという様な事は思いもよらなかった事である。余はこの新しい配合を見つけ出して非常に嬉しかった。 (同174頁)
とある文面は、「柿くへば」の句を詠んだことを指しているように思えてなりません。いかがでしょうか。
57『竹取物語』の冒頭を読む(古典15) 2026.3.10
『源氏物語』絵合巻で「物語の出で来はじめの親」と規定されている『竹取物語』は、『かぐや姫』という別称でも親しまれています。そのため比較的平易な物語と考えられがちですが、いざ真剣に取り組んでみると、案外やっかいな作品であることがわかります。試みに、冒頭部分から問題点を提示して、具体的に考えてみましょう。
いまはむかし、たけとりの翁といふものありけり。野山にまじりて竹をとりつつ、よろづのことにつかひけり。名をば、さぬきのみやつことなむいひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一すぢありける。あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。
翁いふやう、「我朝ごと夕ごとに見る竹の中におはするにて知りぬ。子になりたまふべき人なめり」とて、手にうち入れて、家へ持ちて来ぬ。妻の媼にあづけてやしなはす。うつくしきこと、かぎりなし。いとをさなければ、籠に入れてやしなふ。
第一に、「野山にまじりて竹をと」る翁について、彼は田畑(財産)を所有していない下層階級に属する人物であり、また自ら小作人として農耕に従事することさえしていなかったことが窺えます(親戚縁者もいない)。そのため元手の一切かからない竹(村の共有物)を伐採し、それを実用的な籠などに加工して商うことによって、かろうじて糊口をしのいでいました(「笠地蔵」に近い)。そんな身分低く貧しい翁が、「さぬきのみやつこ」(散吉の造―大和国さぬき郷の里長)という由緒ある姓や地位を有しているはずはありません(ひょっとして没落した?)。そうするとここで掲げられた名は、翁が最初から所有していたものではなく、かぐや姫を手に入れた後で「勢(いきほひ)、猛(まう)の者」になってから獲得したものではないでしょうか(その際、同時に「なよ竹のかぐや姫」という名も付けられました)。
とにかく元来は、まさしく名もない一介の〈竹取の翁〉だったはずです。その貧しい翁が、かぐや姫という「如意宝珠」を手に入れることで(原初的には夫婦となる可能性もあります)、やがて富裕になる(成り上がる)という至福長者譚として見ると、役割を終えたかぐや姫の昇天もすんなり納得されます。昔話ならばそれでめでたしめでたしなのですが、その別離を悲哀として強調している点に、文学としての『竹取物語』が存するのです。
あるいは望外な富を得た翁が、以前とは別人のようになり、いやがるかぐや姫を利用して権力と地位の獲得をめざしたので、神仏の加護が消失したという昔話(たとえば「夕鶴」)的な読みも可能かもしれません。もっとも『竹取物語』が貴族文学である以上、理想の求婚者の条件として求められるのは、人間性の善し悪しなどではなく、まさに上流貴族(高貴な血)というその一点でした(最上は帝への入内)。これは王子様を理想化したシンデレラストーリーとも共通します。
次に少々やっかいな敬語の問題に注目してみましょう。翁がかぐや姫を発見した際、それがまったくの初対面であり、相手の氏素性など未詳であるにもかかわらず、最初から「おはする」とか「たまふ」などと尊敬語が用いられています。この発言は一体誰に向けてのものなのでしょうか。小さなかぐや姫に向けて発せられたとしてもすっきりしません。こういった敬語の使用は、尋常ならざる相手に対する畏敬・畏怖の念ともとれます。また物語の視点からすると、かぐや姫は『竹取物語』の主人公です。その主人公がいかなる登場の仕方をしようとも、物語の論理として、最初からかぐや姫に敬語表現を与えたと見ることも可能です。
また翁の側から言うと、翁の家には子供がいませんでした(昔話に多いパターン)。そのことに関連して、物語には一切描かれていないけれど、前提として翁と嫗はたびたび神仏に子授けを祈願していたに違いありません。その甲斐あって、今こうしてかぐや姫が授けられたのです。神の申し子はしばしば異形(ここでは小人)であらわれますが、それと察したからこそ、翁は「子(籠)になりたまふべき人なめり」と掛詞まで駆使して合点しているのでしょう。
こういった描かれざる前提があったからこそ、翁は即座にかぐや姫を神仏の申し子と判断し、敬語を付けたと考えることもできます(それ故に翁は、かぐや姫を強制的に結婚させられません)。かぐや姫は願いを叶えてくれる〈如意宝珠〉であり、それを養うことは、必然的に翁の繁栄を保証するものだったのです。
56「桃栗三年柿八年」の続き(番外14) 2026.3.3
ことわざは人生訓として今も生き続けています。その背景には、先人たちの数多くの失敗が蓄積されているのではないでしょうか。「転ばぬ先の杖」ではありませんが、昔のことわざは現在に活かしてこそ価値があると思います。
そんなことわざの一つとして、「桃栗三年柿八年」があげられます。意味は、植えてから実がなるまで(収穫まで)に何年かかるかを並べたものです。もちろん比喩的に、物事は一朝一夕にできるものではない、それ相応に時間がかかるものだという教えが含まれているようです。
このことわざは「桃・栗・柿」という馴染みのある三つの果物で短くまとめられています。そこで質問です。これに続くフレーズがあることをご存じでしょうか。もちろん順番ですから、年数はもっと長くなります。そこに地域差というか、場所によって取り上げられる果物に違いが出ているようです。
よく口にされるのは「柚子の大馬鹿十八年」でしょうか。植えてから実がなるまで十八年もかかっては、生産者もたまったものではありません。だから「大馬鹿」なのでしょう。この言い回しを積極的に色紙に書いたのが、あの『二十四の瞳』の作者壺井栄でした。それもあって小豆島にはこの文学碑が建立されています。
それとは別に、原田知世主演の角川映画「時をかける少女」はご存じでしょうか。1983年に公開されて大ヒットしましたが、その映画の一シーン(授業風景)で、このことわざが登場していました。確か保健体育の先生がこのことわざをあげ、その続きとして「柚子は九年でなりさがる」を紹介した後、さらにその続きとして主役の原田知世が「梨の馬鹿めが十八年」といって大笑いされる場面です。また映画の挿入歌「愛のためいき」の歌詞にもなっていました。
ところで「柚子は九年でなりさがる」に違和感はありませんか。もともと前述の「柚子の大馬鹿十八年」は長すぎます。柚子が実をつけるのに十八年もかかりません。それもあって十八年を半分にして、「柚子は九年で花盛り」とか、「柚子は九年でなりさかる」ともいわれているのです。映画ではこれを「なり下がる」(濁音)としていますが、むしろ「成り盛る」(清音)の方が正解ではないでしょうか。
次に長いフレーズを探してみたところ、「桃栗三年柿八年、梅は酸い酸い十三年、梨はゆるゆる十五年、柚子の大馬鹿十八年、蜜柑のまぬけは二十年」というのがありました。また「桃栗三年柿八年、梅はすいすい十三年、柚子の大馬鹿十八年、林檎にこにこ二十五年、銀杏のきちがい三十年、女房の不作は六十年、亭主の不作はこれまた一生」というバージョンも見つかりました。いちょうは実がなるまでに三十年もかかるのです。
この中の「梅」に代わって「枇杷は早くて十三年」というのもあるし、蜜柑に代わって「胡桃の大馬鹿二十年」というのも見つかりました。かなり応用(入れ替え)が利くようです。また「林檎にこにこ二十五年」は長すぎると思われたのか、十年短縮して「林檎にこにこ十五年」というバージョンも見つかりました。
これらは原則として実のなる果樹ですが、ことわざですからここから転じて人事に展開することもあります。「女房の不作は六十年」「亭主の不作はこれまた一生」などがそれです。反対に「桃栗三年後家一年」というパロディもあります。これは亭主を亡くした未亡人がわずか一年で再婚してしまうという皮肉が込められています。
このことわざの出典は明らかにされていませんが、古いところでは江戸時代の『役者評判蚰蜒(げじげじ)』(1674年刊)という本に、「桃栗三年柿八年、人の命は五十年、夢の浮世にささので遊べ」という歌謡が載っていました。「ささ」は酒のことですから、酒を飲んで楽しく遊べという享楽的なものです。こういった面白さやおかしさも、庶民のことわざには大事な要素です。また松葉軒東井編の『譬喩尽(たとへづくし)』(1786年序)には、「桃栗三年柿八年、枇杷は九年でなり兼ねる、梅は酸い酸い十三年」と出ているので、この頃にはことわざとして確立していたことがわかります。
結構有名なことわざなので、「いろはかるた」に採用されてもおかしくないのですが、京いろはは「餅は餅屋」だし、江戸いろはは「門前の小僧習はぬ経を読む」が定番です。幕末頃の「尾張いろは」や「大新板以呂波教訓譬艸(おほしんはんいろはきやうくんたとへぐさ」)」にようやく見られる程度なので、「いろはかるた」では意外に不人気だったことがわかりました。
55国語に関する世論調査から(日本語14) 2026.2.24
文化庁が毎年行っている「国語に関する世論調査」2018年度の結果が報告されました。今回もまた本来とは違う意味の方を正しいと回答した人が多かったようです。これを日本語の乱れと見るのか、それとも日本語の下剋上(変化)と見るのか、見解が分かれるところですね。
それはさておき、みなさんの国語の認識は大丈夫でしょうか。試しにやってみましょう。まず「憮然(ぶぜん)として」はどうでしょうか。この意味はA「失望してぼんやりとしている様子」・B「腹を立てている様子」のどちらですか。調査結果はBと答えた人が57パーセントで、Aと答えた人は28パーセント(半分)でした。これを見る限りBが正解のように思われますが、もちろん正しいのはAの方です。大丈夫でしたか。
次に「御(おん)の字」の意味はどうでしょうか。A「一応納得できる」・B「大いに有りがたい」のどちらだと思いますか。調査結果はAを選んだ人が50パーセント、Bを選んだ人が37パーセントでした。これも調査結果からはAの方が正解のように思われますが、しかし正しいのはBです。
続いて「砂をかむよう」はどんな意味ですか。A「悔しくてたまらない様子」・B「無味乾燥でつまらない様子」、さてどちらが正解でしょうか。調査結果はAが57パーセントでBが32パーセントで、圧倒的にAが多かったようです。ではAが正解かというと、これもBの方が正解でした。
一度は口にしたことがありそうな「なし崩し」はどうでしょうか。A「少しずつ返していくこと」・B「なかったことにすること」、この調査結果はAが20パーセントでBが66パーセントとなっており、Bが三倍も多くなっています。これはやっかいですね。本来の意味は、借金などを少しずつ返済することでした。それは「なし」が「済し」だったからです。ところがこれが「無し」と誤解されたことで、意味が大きく変容したのでしょう。ここまできたら誤用というより下剋上とするべきかもしれません(間違いにできません)。
同様に「手をこまねく」はどうでしょうか。A「何もせずに傍観している」・B「準備して待ち構える」、これはどちらが正解だと思いますか。調査結果はAが37パーセントで、Bが47パーセントとなっていました。これを見ると正解はBのように思えますが、実はAが本来の意味なのです。
次に「時を分かたず」は案外むずかしいようです。A「いつも」・B「すぐに」とあったら、みなさんはどちらを選びますか。調査では、Aを選んだ人が14パーセントで、Bを選んだ人が67パーセントという大差になっていました。これを見るとBが正解でなければならないはずですね。でも正解はAなのです。もともとこれは辞書に載っていない言い方なので、勘違いしているのかもしれません。「いつも」とするより「時を選ばず」などといった方がわかりやすいかもしれません。
では「檄(げき)を飛ばす」はどうですか。A「元気のない者に刺激を与えて活気づけること」・B「自分の主張や考えを広く人々に知らせて同意を求めること」、さてどちらが正解でしょうか。調査結果はAが67パーセントで、Bが21パーセントだったそうです。AはBの三倍ですから、間違いなくAが正解のように思えますね。でも正解はBでした。
もう一問、「浮足立つ」の意味はどちらでしょうか。A「恐れや不安を感じ落ちつかずそわそわしている」・B「喜びや期待を感じ落ちつかずそわそわしている」、さてどちらが正解でしょうか。調査結果は、Aが26パーセントで、Bが61パーセントとなっています。この差を見ればBが正解だと思うはずですね。ところがこれも正解はAでした。これだけ誤答が多いのですから、いずれBも正解になるかもしれません。
次に「姑息」の意味は大丈夫でしょうか。A「一時しのぎ」・B「ひきょうな」、さてああなたはどちらを選びますか。これはBを選んだ人が71パーセントで、Aを選んだ人が15パーセントでした。この結果を見ると断然Bが正解のように思えますが、実は間違いで、Aが正解でした。ところが「姑息な人」などという言い方では、どうしてもマイナスのイメージが含まれてしまい、今ではいくつかの国語辞典でも「卑怯な」の意味を添えています。
最後に「ぞっとしない」はどうでしょうか。A「恐ろしくない」・B「面白くない」、さてこれはどちらが正解でしょうか。調査結果はAを選んだ人が56パーセントで、Bを選んだ人が23パーセントとなっています。これもAが正解のように思えますが、やはり正しくはBでした。これなど「ぞっとする」(怖い)からの類推で、Aが選ばれたのでしょう。ここまで誤答が多いと、Aを間違いにすることは難しくなります。現に辞書でもAを掲載するものが登場しています。
もちろんここでは、あえて誤答の方が正解より多かった例をあげているわけですが、こういったものは、いずれ誤答の方も通用するようになるのではないでしょうか。
54句読点付きの短歌(近代14) 2026.2.17
歌人・岡野弘彦氏が平成18年に出した歌集『バグダッド燃ゆ』(砂子屋書房)は、二つの意味で話題になりました。一つは、自らの戦争体験(第二次世界大戦)とイラク戦争を重ね合わせ、戦争に対する怒りを歌に詠じている点です。もう一つは、短歌にあえて句読点を付けている点です。これには評論家の外山滋比古氏が即座に反応しました。インターネットにあげられている新連載コラム「日本語の個性」の最終回「句読法」で外山氏は、
今評判の歌集、岡野弘彦氏『バグダッド燃ゆ』を見ると、ところどころ、歌中に句読点が ついているから目を見張る。これまで短詩系文学は和歌、短歌、俳句、川柳を問わず、テンとマルは無関係であった。おどろいて、作者ご本人に理由をきいたところ、このごろの若い人は相当の教養があるはずなのに、区切りを間違える。そういうことがないように、句読点をつけた、ということであった。それならまさに句読法本来の使用である。おどろいたりする方が間違っている。
と述べています。外山氏は『省略の文学』や『修辞的残像』の著者なので、句読点の付いた短歌には本当に驚いたのでしょう。それはさておき、この文章を読んで、みなさんはどのような感想を抱きますか。なるほど、短詩系文学に点と丸は使わないなと納得されますか。もしそうなら外山氏のみならず、それに同意したみなさんも勉強不足といわざるをえません。というのも、句読点は岡野氏以前からしばしば使用されていたからです。
そもそも岡野氏の一番身近だった人、岡野氏の短歌と学問の師匠である折口信夫(釈超空)からして、短歌に句読点を付けたことで有名な歌人でした。代表歌とされている、
葛の花踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり
にしても、はっきり点と丸が付いているのですから、それを弟子の岡野氏が知らなかったとは考えにくいですよね。しかも歌集『海山のあひだ』(改造社)のあとがきには、
「わかれば、句讀はいらない」などと考へてゐるのは國語表示法は素より、自己表現の為 に悲しまねばならぬ。
云々と、句読点の必要性が説かれているのです。師匠が積極的に句読点を活用しているのですから、弟子の岡野氏がそれを踏襲しないはずはありません。
外山氏は、岡野氏にはぐらかされたようです。というより、短歌に句読点が用いられていたことに気づかなかったのは、外山氏最大のミスではないでしょうか。あるいは岡野氏は、外山氏に恥をかかせたくなかったのかもしれません。仮に外山氏が折口信夫の句読点使用を知らなかったとしても、もっと有名な歌人の例が思い浮かんで当然だからです。例えば石川啄木の歌集『悲しき玩具』(東雲堂)を見ると、冒頭の歌からして、
呼吸すれば、
胸の中にて鳴る音あり。
凩(こがらし)よりもさびしきその音!
と表記されています。啄木の歌には句読点だけでなく、感嘆符や括弧・ダッシュまで付けられています。これは当時もかなり評判になっていました。
その啄木に影響を与えたとされるのが土岐善麿(哀果)です。彼の歌集『黄昏に』にも、句読点の付いた歌が収められています。代表作として、
りんてん機、今こそ響け。
うれしくも、
東京版に、雪のふりいづ。
をあげておきます。三行書きという形式まで共通していますね。実は『悲しき玩具』は、啄木の没後に哀果が編集して出したものなので、啄木の意図を超えて哀果による句読点が施されている可能性も否めません。
もっと古い例もあります。近代短歌の大御所・与謝野鉄幹が明治29年に刊行した詩歌集『東西南北』(明治書院)に載せている、
花ひとつ、緑の葉より、萌え出でぬ。
戀しりそむる、人に見せばや。
がそれです。鉄幹の場合は、新体詩の延長としての使用とも考えられます。さらには山田美妙もそれより古い明治22年に、
ふたゝびは似る音もなし、ものゝふの
やしまのうらは名のみなりけり。
という歌を詠んでいます。その他、佐佐木信綱の歌集『新月』(博文館)の中にも、
虻(あぶ)は飛ぶ、遠いかづちの音ひびく真昼の窓の凌霄花(のうぜんかづら)
と、読点を打った歌が掲載されていました。
以上、句読点の付いた短歌の例をいささかあげてみました。明治・大正期に有名な歌人たちが句読点を用いているのですから、外山氏の発言は修正されてしかるべきでしょう。こういった意図的な句読点の使用は、あるいは伝統的な短歌を近代詩の世界へ誘おうとする新たな試みの一つなのかもしれません。
53「春は曙」漢字表記の弊害(古典14) 2026.2.10
またまた『枕草子』です。仮に『枕草子』初段の表記が「春は曙…」と漢字で書かれていたとしたら、みなさんは「曙」をどう読みますか。まさか「しょ」と音読みする人はいませんよね。そうなるとほとんどの人は、そのまますんなり「あけぼの」と読むかと思います。現代においてはそれで正解です。何の問題もありません。ところがこれを平安時代に遡って訓読したとすると、たちまち「あけぼの」は不正解になってしまいます。
信じがたいことかもしれませんが、平安時代の古辞書類を調べても、「曙」が「あけぼの」と訓読された例が見つからないからです。逆に「あけぼの」を「曙」と表記した例も見当たりません。では当時は何と読まれていたのかというと、もっとも有力なのは「あかつき」でした。他に「あく」「あさぼらけ」という読みも見られます。ここまで来ると訓読から広がって、「あかつき」・「あけぼの」・「あさぼらけ」の三つは、時間表現として重なりを有しているのではという類推ができそうです。
そこで試しに、『枕草子』初段を「はるはあかつき」と口にしてみると、妙な違和感があります。では「あけぼの」を「あかつき」に置き換えた場合、どのような意味の違いが生じるのでしょうか。共に明け方近くを指す時間用語ですから、時間帯が大きく動くことはありません。ただしかつての語義研究では、「あかつき」の後に「あけぼの」が置かれていました。暗い時間帯の「あかつき」から、薄明るい時間帯の「あけぼの」へと時間が進行・推移すると信じられていたからです。
ところが最近、急速に時間表現の研究が進んだことで、とらえ方が大きく見直されつつあります。縦軸に置かれていた「あかつき」と「あけぼの」は、重なりを有する時間帯として横に並列されつつあるからです。その上で、「あかつき」は聴覚表現と共起することが多く、「あけぼの」は視覚表現と共起することが多いとされています。「あかつき」に聴覚表現が用いられるのは、その時間帯がまだ暗いからでしょう。それに対して「あけぼの」は、視覚が通用するほどの薄明るさということで、そう説明されているようです。
ただそれだと、以前の説明の方がわかりやすいことになりかねません。これを横軸にしたのは、「あかつき」が案外長い時間帯をカバーしていることがわかったからです。基本は午前三時から五時までの二時間です。その「あかつき」の後半が「あけぼの」と見なされているのです。これなら確かに重なっていますよね。今後は暗い時間帯の「あけぼの」も想定すべきかと思います。
もちろんそれだけではありません。かつて「しののめ」と「あけぼの」の違いについて、それを意味の違いではなく、「しののめ」は歌語で「あけぼの」は非歌語(歌に読み込まれない語)と説明されたことがあります。これを援用すると、「あかつき」は歌語で「あけぼの」は非歌語としてもよさそうです。少なくとも『源氏物語』や和泉式部によって、「あけぼの」が歌に読み込まれる以前は、その説明で間違ってはいませんでした。付け加えるとすれば、「あかつき」の用例はたくさんありますが、「あけぼの」の用例は数えるほどしかない(少ない)ことも特徴としてあげられます。非歌語か否かの問題ではなかったのです。
なお歌に詠まれる場合、『枕草子』初段のインパクトが強烈だったこともあってか、『源氏物語』『和泉式部続集』など初期の歌は、「春のあけぼの」として詠まれることが多かったようです。それに対して歌語のはずの「あかつき」は、『万葉集』でも勅撰三代集でも「春のあかつき」とは読まれていません。もっとも漢詩としてなら、孟浩然の「春暁」が有名ですよね。どうやら「あかつき」ではできなかった歌語表現を、「春のあけぼの」が埋めたといえそうです。「春」と「あけぼの」はそれだけ結びつきの強い表現だといえます。
以上、「あけぼの」と「曙」は仮名か漢字かの違いだけではなかったこと、おわかりいただけましたか。ということで最初に戻って、『枕草子』の初段冒頭は「春はあけぼの」(仮名表記)でなければならなかったのです。安易に「曙」を宛てているものは、早急に修正してください。
52「付け足し言葉」を知っていますか(番外13) 2026.2.3
NHK大河ドラマ「べらぼう」で、「ありがた山の寒がらす」「これしか中橋」などといった表現が耳につきました。ではみなさんは「蟻が十(とお)なら芋虫や二十(はたち)」という表現を知っていますか、あるいは口にしたことがありますか。これはよく使う「有難う」を言語遊戯的に混ぜっ返して、「蟻が十」に読み換え、数字の「十」を「二十」に発展させる中で、「蟻」より大きい「芋虫」を出して語調を整えているものです。特にこの表現に深い意味はなさそうですが、それでも言い回しとしての面白さは十分ありますよね。
実はこれにはもう一つのバージョンも伝わっています。それは「蟻が鯛なら芋虫や鯨」という言い回しです。これは「有難う」が「有難い」になっていることから、「十」が「鯛」に変わり、それに連動して「二十」も「鯨」という魚系に読み換えられています。こうして基本形が確立・流布すると、そこから新たなバージョンも次々に生み出されました。
例えば「蟻が十なら蚯蚓(みみず)は二十」と、「芋虫」が「蚯蚓」に入れ替えられたり、「蟻が父さん蚯蚓が母さん」と数字の「十」が「父さん・母さん」に置き換えられたりしています。さらに発展形として、「蟻が十なら芋虫や二十、百足(むかで)三十で嫁に行く」と、もう一つの数字が付け足されたバージョンも作られています。これには「三十」という数字が、「二十五」や「二十九」になっているものもあります。また「百足」が「蛇」に置き替えられているものまであります。
どうやらこれは、もともと物売りの口上として用いられた(広まった)もののようです。話術の一種として「啖呵売(たんかばい)」とも称されています。「がまの油売り」や「バナナのたたき売り」・「七味唐辛子売り」・「包丁売り」など、いわゆる香具師や的屋(てきや)の専門用語だったのです。ご存知かと思いますが、「フーテンの寅さん」の映画の中でもしばしば「啖呵売」の光景が出ていましたね。
こういった表現は「付けたし言葉」(地口(じくち)・無駄口とも)といわれていますが、必ず洒落というか掛詞が入っているのが決まりです。数字を含むものはあまり多くはありませんが、「何か用か(七日八日)九日十日」は落語で使われています。「さよなら三角また来て四角」は、絵本やテレビドラマで有名になりました。もう一つ、「すいま千年、亀は万年」もありました。これは「すみません」から発展したものです。
こういった「付け足し言葉」は日常の生活にも入りこんでいるので、どこかで聞いたことがあるものも少なくありません。知名度の高いものとしては、「おっと合点承知の助」や「あたりき車力よ車引き」・「驚き(木)桃の木山椒の木」・「何が南瓜唐茄子かぼちゃ」・「うらやま椎の木山椒の木」・「どうぞかなえて暮の鐘」・「そうは問屋が卸さない」・「あきれ蛙のほおかぶり」・「敵もさるものひっかくもの」などがあげられます。歌舞伎「ういろう売り」には「おっと合点だ心得たんぼ」とありましたね。最近は「了解(東海)道中膝栗毛」も登場しています。これにコマーシャルでヒットした「当たり前田のクラッカー」(「てなもんや三度笠」のあんかけの時次郎の口上)も加えられそうです。またテレビドラマの「ジャンケンケンちゃん」も仲間入りしそうですね。
中には巧妙に地名が読みこまれているものもあります。「恐れ入谷の鬼子母神」は特に有名ですね。これ以外に「そうで有馬の水天宮」・「しゃれの内のお祖師様」・「うそを築地の御門跡」・「びっくり下谷(したや)の広徳寺」・「何だ神田の大明神」・「会いに北(来た)野の天満宮」・「その手は桑名(食わない)の焼き蛤」・「堪忍信濃の善光寺」・「そうか越谷千住の先よ」・「大あり名古屋の金のしゃちほこ」など数え上げればきりがありません。しかし地名(固有名詞)が含まれると、その地域の中でだけしか通用しないことになるかもしれません。なお「お祖師様」とは、堀之内妙法寺に祀られている日蓮上人のこと、「御門跡」は築地本願寺のことです。
言葉遊びとしては、「桃栗三年柿八年」もあります。「百も承知、二百も合点」もその仲間でしょうか。また「いろはかるた」の中には、「豆腐にかすがひ、打っても効かん」・「鬼も十八、番茶も出花」・「旅は道ずれ、世は情け」・「猫に小判、やっても取らん」といった、いわゆる取らせ言葉もあります。こういったものも「付け足し言葉」の仲間ではないでしょうか。
そもそも「付け足し言葉」は口承文芸のようなものですから、なかなか文学作品などには書き残されていません。そのため作者については不明な場合が多いようです。幸い「恐れ入谷の鬼子母神」については、大田蜀山人作「放歌集」(文化八年頃)に、
いまさらに恐れ入谷のきしも神あやうく過ぎし時を思へば
という狂歌が出ていることから、蜀山人の作という説があります。ただしそれより早い文化三年(1806年)刊の式亭三馬作「小野ばかむらうそ字尽」に、既に「おそれいりやのきしもじん」とあることから、否定的な意見もあります。蜀山人も三馬も作者なのではなく、単なる筆録者とすべきでしょうか。いずれにしても「付け足し言葉」は文化年間には誕生していたことがわかりました。
(付録)立春について 2026.1.27
時間は過ぎ去りますが、季節はめぐります。特に四季に富んだ日本では、四季の移り変わりが年中行事、つまり生活の中に深く入り込んでいます。それは暦と重なる部分もありますが、暦とは微妙にずれることも少なくありません。特に日本では、西洋の太陽暦と中国の二十四節気が融合された独自のものが使われているのでなおさらです。
二十四節気は既に紀元前の中国で成立したもので、その基準となるのが夏至・冬至・春分・秋分の四つで、これを四至(しし)と称しています。詳しくは夏至と冬至が二至、春分と秋分が二分です。これらは日時計でも観測できます。この四至の中間点が立春・立夏・立秋・立冬の四つで、これが四立(しりゅう)です。その八つ(八節)をさらに六つに分割したものが二十四節気になります。要するに立春は冬至と春分の中間点というわけです。
これを天文学的に分析すると、黄道上で太陽の黄経が0度の時を春分点としています。この時刻を含む日が春分の日になります。その太陽の黄経が90度の時が夏至、180度の時が秋分、270度の時が冬至になります(次は0度に戻ります)。立春は冬至と春分の中間ですから315度です。なお四立の前日が節分に当たります。ですから本来節分は年に四回あるのですが、日本では立春の前日の節分が豆撒きの行事として定着していますね。
さて立春ですが、四立の中で立春にだけ存するややこしい問題があります。それは旧暦では新年と立春が重なっていたからです。そのため日付のずれが生じていました。そのことは『古今集』春上1番歌に詠われています。
ふる年に春立ちける日よめる 在原元方
年のうちに春は来にけり ひととせを去年とやいはむ今年とやいはむ
この意味はおわかりでしょうか。まず詞書の説明を見ると、旧年中に立春が訪れたことを歌に詠んだとあります(春立つが立春です)。旧年の12月あるいは閏12月に立春が訪れることを年内立春と称します。それに対して新年1月の立春は新年立春です。そして立春と新年が重なる、つまり1月1日が立春になることを朔旦(さくたん)立春と称しています。これはむしろ珍しいので、非常に縁起のいい日とされていました。
ただこの方式だと、年によっては新年立春と年内立春と2回立春がある場合もあるし、逆に年内立春と新年立春だと、立春のない年も発生します。これを盲年と称し、縁起を担いでこの年には結婚しない方がいいともいわれていました。立春にはこんなドラマが潜んでいたのです。今年の立春は新暦では二月四日ですが、旧暦では12月17日なので、まさに年内立春でした。
では何故こんなずれが生じるのでしょうか。それは地球が太陽の周りを回る周期が、1年365日より少し多い365、24日だからです(1年で約6時間の誤差になります)。そのためこのズレを補正するために閏年が設けられたり、二十四節気の調整が行われた結果、日付が変更されるというわけです。つまり現在の太陽暦の暦と完全には重ならないということです。
なお立春は二十四節気の起点ですから、これを基準にした年中行事は現代でもいくつか残っています。たとえば「夏も近づく八十八夜」で始まる唱歌「茶摘み」は、まさに立春から数えて88日目のこととされています。また入梅にしても、立春から数えて135日目、そして二百十日(台風の厄日)は立春から数えて210日目でした。ついでながら、立春の前に開花した梅のことを早梅(そうばい)と称しています。これは梅の品種ではなく、いち早く咲いたという意味です。
なお現在、日本では新暦(太陽暦)で正月を祝っていますが、旧暦(太陰太陽暦)で正月を祝っている国も東南アジア(かつての中国文化圏)には少なくありません。特に中国の春節は有名ですね。それ以外にも韓国・ベトナム・シンガポール・インドネシア・マレーシアなど12の国では「旧正月」が休日や祝日になっており、盛大に祝う伝統があります。日本でも長崎・神戸・横浜などにある中華街ではにぎやかですよね。なお今年の旧正月は2月17日です。みなさんも旧正月を祝ってみませんか。
51節分の文化史 2026.1.20
昨年(令和7年)の節分は2月2日でした。今年(令和8年)の節分は2月3日になっています。どうして去年と今年とで節分の日付が異なるのでしょうか。実は節分は3日に固定されているわけではありません。それよりもっと重要な要素となっているのが立春でした。
その立春にしても、単純に2月4日に固定されているわけではありません。それは国立天文台が厳正に太陽黄経の角度が315度になる日を定めて発表するものだったのです。普通は2月4日ですが、日付が3日や5日にずれる可能性もあります。ということで昨年は立春が3日だったのです。それに連動して節分が前日の2日になったというわけです。旧暦で満月は常に15日だと思っている人が多いかもしれませんが、これも16日が満月ということも少なくありません。藤原道長が「この世をば」と詠じたのも16日の満月でした。
要するに立春は暦にはめ込まれていたわけではないのです。それに連動する節分というか、節分に付随する年中行事は、旧暦から新暦への変更によって泣き別れしたものもあります。たとえば立春が正月の始まりだった昔、節分は大晦日に該当しました。ですから古くは大晦日の行事として追儺(鬼やらい)が大晦日に行われていました。
それが正月と決別して、現在は立春の前日に行われています。本来は新年を迎えるための行事だったものが、今は新年とは切り離されたものとして行われているのです。それに付随しているのが初夢でした。初夢ですから新年の行事の方がふさわしいはずです。ただし初夢にしても、日付の変更というか微妙な揺れがありました。ですから人によって地域によって、初夢の日は混沌としているのです。
本来は節分から立春(新年)になる夜に見るのが初夢でした。これが一番妥当ではないでしょうか。それが江戸時代になると、元日から2日になる夜に見るものとなり、さらには2日から3日になる夜に見るものへと変化しています。明治になって旧暦が新暦に変更されると、立春の前日を節分とすることになったことで、節分と立春の間の夜に見るのが初夢になりました。
それに連動するのが宝船です。宝船は初夢を見る際、印刷された宝船図を枕の下に入れることで、縁起のいい夢を見ようとしたものです。その宝船図には原則、
長き夜の遠のねぶりのみなめざめ波乗り船の音のよきかな
という歌が記されていました。これはいわゆる回文で、上から読んでも下から読んでも同じ詞章になっています。寝る前にこの歌を三度唱えて寝ると吉夢を見るとされていました。もっといえば宝船の効用は、仮に悪い夢を見た時、宝船を川に流せば悪い夢も流せる(縁起直し)というものです。
昔は宝船売りがおり、その日に宝船を出張販売していました。現在の京都の寺社では、節分の日にだけ宝船を配布する風習が残っています。特に五条天神社の稲穂を載せたシンプルな宝船は、古くから有名でした。この稲穂は実りの象徴ですが、実は「長き夜の」の歌の中にちゃんと「みのり」も詠み込まれています。どこだか確認してみてください。
いかがでしょうか、旧暦から新暦に変更されたことで、暦が一か月以上早くなってしまったこと(正月が寒くなったこと)、それに伴って旧来の行事を新暦でやるか旧暦でやるかという選択が行われていること、加えて立春が新暦や旧暦では決められず、天文台に頼って決定されていること、そして節分は豆撒きだけの行事ではなかったこと、初夢の日が移動していること、おわかりいただけたでしょうか。これが分かれば日本文化の面白さが倍増するはずです。
さて今年の2月3日、是非宝船図を枕の下に入れて寝てみてください。きっといい夢が見られるはずです。なお豆撒きについては、「「節分」について」『古典歳時記』(角川選書)で書いています。また「鰯の頭」については『暮らしの古典歳時記』で述べているので参照してください。
50「イチョウ」の不思議(近代13) 2026.1.13
京都御苑の北側・今出川御門の横にイチョウの大木があります。毎年秋になると、緑の葉が一斉に黄色く色付き、そしてあっという間に落葉します。イチョウが散る様子を女流歌人・与謝野晶子は、
金色の小さき鳥のかたちしていちょう散るなり夕日の丘に
と詠んでいますが、見事なたとえですね。これを見ると、イチョウは歌にたくさん詠まれているような錯覚に陥ります。ところが調べてみると、古典では『万葉集』以下、勅撰和歌集に一切詠まれていないどころか、『枕草子』や『源氏物語』などの散文にも一切描かれていないことがわかりました。近代文学に至って、ようやくイチョウが出てきますが、どうやらイチョウを最も多く歌に詠んだのが与謝野晶子だったようです。
ではどうして古典にイチョウは登場しないのでしょうか。決して別名で呼ばれていたのではありません。その答えの一つは、日本にイチョウがなかったからという単純なものです(外来種)。イチョウが日本になければ、文学に描きようもありません。それに関連して気になるのは、一体いつ頃日本に伝来したのかということです。全国各地にイチョウの大木が百本以上もあって、樹齢七百年は当たり前、千年を超えるといわれているものも複数あるようです。ただしほとんどは伝承であって、年輪からきちんと確認された例は知りません。
もし樹齢千年が本当だとすると、当然平安時代には存在していたことになります。七百年前でも鎌倉時代ですから、必然的に平安から鎌倉にかけて日本に伝来したという説は根強いようです。それに関連して、1219年2月13日、三代将軍源実朝が鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝した折、石段のイチョウの木の陰に隠れていた甥の公暁によって暗殺されたという説話が知られています。
その由緒ある鶴岡八幡宮の大イチョウが、平成22年3月10日の強風で根本から折れてしまいました。ただし幹の胴回りは7メートルしかなく、到底樹齢千年には達していそうもありません。そもそも鎌倉時代前期の『愚管抄』などの古い記録には、イチョウが登場していません。この話にイチョウが付加されるのは、遅れて江戸時代になってからのことでした。ですから実朝の一件は、イチョウ伝来の資料としては使えそうもないのです。実は原産地とされる中国でさえ、「鴨脚」として文献に登場するのは11世紀に入ってからでした。仮に日本のイチョウの樹齢千年が本当なら、本場中国より古いことになってしまいます。かくして樹齢千年というのは、科学的な根拠のない幻想・伝承の可能性が高くなります。
現在、総合的な調査で判明していることは、イチョウに関する資料は室町時代以降にしかないという事実です。それによればイチョウは、1400年代に「銀杏」として日本に伝来・定着したことになります。その用途は、一つには薬用であり一つには食用でした。江戸時代の版本を購入した際、よくイチョウの葉が栞のように挟んでありますが、それは防虫効果が信じられていたからです。最近の調査によれば、青い葉に含まれるシキミ酸を紙魚が嫌うということが報告されています。
銀杏の種は炒って食べれば美味しいですね。ですが生で食べたり、一度にたくさん食べるのは体に悪いとされているので注意しましょう。なおイチョウの植物学的特長の一つとして、実がなるためには雌雄の株が必要であること、また芽が出てから実がなるまでに30年以上もかかることがあげられます。「桃栗三年」どころの話ではありません。ですから最初は樹木として銀杏と呼ばれたのでしょう。数10年経ってその木に実がなると、今度は木よりも種の方を銀杏と称するようになったと考えられます。つまり同じ銀杏という漢字ですが、木は「イチョウ」と呼び、実は「ぎんなん」と読んで使い分けられたというわけです。それは実が杏に似て、種が銀色に見えたことによります。
ついでながら中国名の「鴨脚」は、葉が水かきの付いた鴨(アヒル)の足に似ていることから命名されたようです。また「公孫樹」という別称は、植えてから孫の代になってようやく実を付けることによるそうです。学名の「ギンコー」は銀杏の「ギンキョー」という音がもとになっているとされています。もう一つ、イチョウは燃えにくい木とされています。そのため関東大震災後、街路樹としての需要が高まったそうです。これが日本にイチョウ並木の多い理由だったのです。
中でも東京大学本郷の銀杏並木は有名ですね。結構大きな木なので、加賀藩の藩邸時代からあったと思っている人もいるようですが、あの銀杏は明治39年に計画的に整備されたものだそうです。ただし苗木を植えたのではなく、小石川植物園からかなり大きな木を移植したので、樹齢は150年を超えていることになります。
これが契機となり、昭和23年に東大のシンボルマークとして、イチョウの葉が選定されたことで、学校(学問)とイチョウが深くかかわることになりました。その際、桜は花をみると浮き浮きするので、勉学する大学にはふさわしくないと却下されたそうです。東大らしい思考ですね。イチョウが古典文学に登場しない植物であったこと、おわかりいただけましたか。
49『枕草子』の四季の背景を読む(古典13) 2026.1.6
「春はあけぼの」は既にこのコラムで二度取り上げました。今回は三度目の補足です。清少納言は、何故『枕草子』を「春」から書き始めたのでしょうか。
これに関しては、『枕草子』の跋文からお話しなければなりません。跋文によると、内大臣伊周から中宮定子に上質の料紙が大量に献上されました。その一部を一条天皇に献上したところ、一条天皇はその紙に『史記』をお書きになるとのことです。そこで定子は清少納言に向かって、お前ならどうする(何を書く?)とお問いになりました。すると清少納言は「枕にこそははべらめ」と答えたところ、定子から「さは得てよ」と大量の紙を与えられたとあります。
この「枕」から、書名が『枕草子』になったということ、おわかりになりますよね。もちろんそれだけでは済みません。清少納言の答えが定子の気に入らないものであれば、紙をもらうことはできなかったからです。そう考えると清少納言の答えは、定子の気に入るような内容だったことになります。その点どう考えたらいいのでしょうか。
まず「枕」ですが、単に手元に置いて大事にしますというレベルでは、不合格です。そもそも「枕」は和歌の修辞として、「しきたへの枕」つまり「枕」や「衣」を導く枕詞としての「しきたへ」のが浮上します。これは既に『万葉集』に、
ますらをと思へる我も敷妙乃 衣の袖は通りて濡れぬ(135番)
と詠まれています。枕詞をよく見てください。ここに「しき(敷・史記)」が含まれていますよね。そう、清少納言は一条天皇が『史記』をお書きになるのなら、私は『史記』の関連で「枕」にしますといっているのです。ここには一種の言語遊戯が行われていたのです。
まだこれで終わりではありません。これからが本題です。今、「史記」と「敷たへ」が掛詞になっているといいましたが、清少納言はさらにそこに「四季」をも入れ込み、三重の掛詞にしているのです。というか「四季」から始めないと『枕草子』は始まらないのです。この四季の意識は、『万葉集』の配列には見られず、『古今集』で初めて確立された平安朝の美意識でした。ご承知のように、『古今集』は春夏秋冬つまり四季の部立から始まっていますよね。もうおわかりかと思いますが、『枕草子』初段はその四季をなぞるように、「春は」「夏は」「秋は」「冬は」と進行しているのです。ですからここまでは清少納言の創作ではなく、平安朝の新たな美意識を踏襲しているといっても過言ではありません。
確認すると、『古今集』は四季に沿って自然の移り変わりを見事に配列しています。その『古今集』の四季は、必ずしも均一ではありません。夏と冬は各一巻ですが、春と秋は上下各二巻になっているからです。分量の違いからだけでも、『古今集』における春秋重視が読み取れます。それに対して『枕草子』初段は和歌を含んでいないので、必ずしも春秋が重視されているわけではなさそうです。ただし冬については、内容的にさほど評価できなかったことが読み取れます。ある意味、清少納言の冬嫌い(寒さ嫌い)が出ているのかもしれません。それはさておき、一条天皇の『史記』に対抗して、私は「四季」折々のことを書きましょうといっていると考えると、これが説明として一番すっきりすると思いませんか。
ここまで来て、清少納言は理知的な応答によって、定子から紙を下賜されたというのも怪しくなってきます。では何故紙を与えられたかというと、定子は清少納言に四季の草子を書かせたかったとは読めないでしょうか。この紙は、清少納言が自由に使えるものではなかったのです。そう考えると『枕草子』は、定子を中院とする宮廷の四季(日記)が書かれていても不思議ではありません。
この話の展開からすると、清少納言が『古今集』を書写してもおかしくはありません。『古今集』には当時の美意識が詰まっているからです。でも清少納言は、『古今集』を念頭におきつつ、『古今集』とは異なる四季を描き出しました。それが「春はあけぼの」だったのです。『古今集』では梅や鴬、桜や霞の歌を並べることによって、四季の移り変わりを表出しています。それに対して『枕草子』は春の風物を一切あげず、短く「春はあけぼの」と言い切りました。おそらく最初にこれに接した読者はきっと大いに驚き、頭がパニックになったかもしれません。それくらいの斬新さがあったのです。
残念なことに、現代のみなさんは「春はあけぼの」を目にし耳にしても、驚くことなどありませんよね。それは教科書の教材として当たり前のように与えられているからではないでしょうか。教師の側にしても、単に教材の一つを扱っているだけで済ませてはいませんか。もう一歩進んで、『枕草子』の斬新さまで生徒に伝えていただけないでしょうか。古典の危機は、必ずしも文科省や教科書に起因するだけではなさそうに思えてなりません。
48古典の「おと・ね・こえ」の使い分け(番外12) 2025.12.24
『千載集』所収の慈円歌、
山里の暁方の鹿の音は夜半のあはれの限りなりけり(319番)
を見ると、「鹿の音」が「鹿のね」と読まれていることに気づきます。鹿の鳴き声はどうして「声」でなく「ね」なのでしょうか。特に外国の方は「おと・ね・こえ」の三種をどのよう使い分けるのでしょうか。
まず「音」の2つの読みですが、一般的に「おと」は不規則かつ非音楽的音声で、「ね」は韻律的音楽的音声とされています。だから和歌では「ね」が用いられるというわけです。もっとも古典を研究している私としては、もっとわかりやすく生物の鳴き声・小さな音・情緒的なものは「ね」で、無生物・大きな音・不快な雑音などは「おと」と分けたいところです。その基準からすると、太鼓は「おと」になります。ではピアノはどっちでしょうか。あるいは鹿は小さな動物に該当するでしょうか。
もちろん例外もあります。例えば「鐘の音」は必ずしも不規則ではないし、不快なものでもありません。そこで「近江八景」という曲(お手玉歌)では、「三井寺の鐘の音(ね)」という歌詞になっています。近くで聞くと騒音かもしれませんが、遠くで聞くとなかなか味わい深いものです。
同じような例を探すと、『枕草子』初段に、「風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず」とありました。ここでは風は「おと」で虫は「ね」と読んでいます。もちろん「風の音」は、暴風でもない限り雑音ではありません。むしろ心地よいものです。その証拠に、
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(古今集一六九番)
の「風の音」は、秋の訪れを感じさせる涼風でした。それでも「風のね」とはいわないようです。
次に『源氏物語』夕霧巻には、
虫の音も、鹿のなく音も、滝の音も、ひとつに乱れて艶なるほどなれば、
(新編全集408頁)
とあって、ここでは虫と鹿は「ね」で滝は「おと」になっています。もうおわかりかと思いますが、古典の「ね」には「哭(泣く)」の意味が含まれているようです。そのため掛詞(言語遊戯)として、鳴き声を「ね」と読むことが多いのでしょう。ただし鹿の鳴き声は必ずしも「ね」ではなく、「声」とすることも少なくありません。有名な猿丸大夫の、
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき
がそうです。それは前述の「鐘の音」も同様です。『平家物語』冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無情の響きあり」など、「鐘の声」から深い意味(比喩)まで読み取らなければなりません。
こうなると今度は、「音」と「声」の違いは何かという問題が浮上してきます。現代の説明として、「おと」は無生物が発するもので、「こえ」は生物が発声器官を使って発声させるものと定義されています。しかしこれでは「鐘の声」の説明はつきそうもありません。そこで時代的変遷という見方を導入してみましょう。
古典では「声」は生物だけでなく、弦楽器や打楽器などにも用いられていました。こういった人間が奏でる楽器は、人間の声の一部(延長線上)と認識されていたのでしょう。それは感情移入が可能だからかもしれません。そう考えると、「ね」と「声」が重なる理由も納得できます。
これを応用すれば、感情移入できるものが「ね」で、できないものが「おと」という分類も可能かもしれません。平安時代には、そういった繊細な使い分けが確かに行われていたのですが、鎌倉時代(武家社会)以降、徐々に区別が曖昧になっていったようです。「蛙」にしても、現代人は「かわず」ではなく「かえる」と読むでしょうから、そうなると「かえるの鳴き声」は騒音・雑音に分類されるかもしれません。
なお近代的な脳科学の成果として、日本人が自然の音を左脳で知覚するのに対し、西洋人は右脳で知覚するという研究報告がありました。だから西洋人は自然の音を雑音と感じ、日本人はそれを意味のある言葉として感じるのだそうです(あくまで報告です)。それは音感というより、日本人特有の美意識ともいえます。もしそうなら、古典を理解するためには、「おと」と「ね」の違いに敏感にならなければなりません。聴覚を鍛えましょう。
47漢字の不思議(日本語12)47漢字の不思議(日本語12) 2025.12.16
日本語の特徴として、同じ発音でありながら意味が異なる場合があります。たとえば同じ「きる」でも服を「着る」とハサミで「切る(斬る・伐る・剪る)は」大違いですね。英語を「話す」と犬を「放す(離す)」も全然違います。それが熟語となると、いわゆる同音異義語となります。「きこう」には「機構・気候・寄稿・紀行・寄港・気功」などがあるし、「かんしょう」には「鑑賞・観賞・干渉・感傷・緩衝・完勝」などがあります。また「しじょう」には「市場・史上・誌上・私情・試乗・四条」などがあり、「たいせい」には「体制・耐性・態勢・大成・胎生」などがあります。「ほしょう」にしても「保証・保障・補償・歩哨」で迷いますね。「かいじょう」には「会場・開城・海上・階上・開場・階上・回状・海城・開錠」などがあります。
かつては「貴社の記者が汽車で帰社した」という一文が有名でした。もっとも異義語の多い熟語として、「こうしょう」(交渉・考証・高尚・口承・公称・好尚・校章・公傷など)があげられており、実に四十八もの違いがあるそうです。これが日本語の特徴の一つであり、だからこそ掛詞というか言語遊戯が成り立つわけです。そんな中でどっちなのかわかりにくい同音異義語(類似語)もあります。「回答」と「解答」、「清聴」と「静聴」、「解放」と「開放」、「制作」と「製作」、「最小」と「最少」、「対象」と「対照」、「清算」と「精算」、「保証」と「保障」、「鑑賞」と「観賞」、「特徴」と「特長」、「紙面」と「誌面」、「追及」と「追求」と「追究」、「配布」と「配付」、「決済」と「決裁」、「占有」と「専有」、「要綱」と「要項」、「所要」と「所用」など、あなたはどれだけ使い分けられますか。
次に同じ漢字の熟語でありながら、読み方で意味が変わるものはいかがでしょうか。「十分」は「じっぷん」なのか「じゅうぶん」(充分)なのかで迷いますね。「一行」には「いちぎょう」と「いっこう」の違いがあります。「一人前」を「いちにんまえ」と読むか「ひとりまえ」と読むか微妙ですね。「下手」には「へた」と「したて」「しもて」という使い分けがあります。「人気」は「にんき」だけでなく「ひとけ」とも読めます。「一寸」には「いっすん」だけでなく「ちょっと」という読みもあります。「大家」にしても「おおや」なのか「たいか」なのかわかりません。「最中」には「さいちゅう」以外に「もなか」という読みもあります。「風車」には「ふうしゃ」と「かざぐるま」がありますが、これは大きさの違いでしょうか。「何時」も「なんじ」と「いつ」では違いますね。
逆にほとんど同じ意味をあらわす複数の漢字もあります。たとえば「長いと永い」、「匂うと臭う」、「聞くと聴く」、「表すと現す」、「香ると薫る」、「愁いと憂い」、「思うと想うと憶う」、「見ると看ると観ると視ると診る」は多いですね。漢字一字でも「岡と丘」、「畑と畠」、「町と街」、「歌と唄と詩」、「足と脚」、「木と樹」、「花と華」、「期と季」、「所と処」、「丸と円」、「谷と渓」、「玉と珠」、「国と邦」、「道と路と途」、「目と眼」、「草と艸」、「日と陽」、「形と型」、「京と都」、「岳と嶽」、「元と本」、「石と岩」、「集と輯」、「年と歳」、「暗と闇」、「涙と泪」などがあげられます。
それとは別に、漢字の熟語の上下を入れ替えることで、まったく意味のことなるものになる場合も少なくありません。すぐ思いつくのが「会社と社会」、「部下と下部」、「体重と重体」、「母国と国母」、「数字と字数」、「学科と科学」、「明解と解明」、「出演と演出」、「学力と力学」、「客観と観客」、「名著と著名」、「名人と人名」、「名品と品名」、「定規と規定」、「当日と日当」、「階段と段階」、「事故と故事」、「台本と本台」、「同一と一同」、「中心と心中」、「長所と所長」、「人工と工人」などいくらでも思いつきます。「女王と王女」は意味が近い方でしょうか。みなさんも考えてみてください。
これらは読みが統一されていますが、音読みと訓読みになる場合も少なくありません。たとえば「地下と下地」、「出家と家出」、「日本と本日」、「中国と国中」、「相手と手相」、「色気と気色」、「分野と野分」、「分子と子分」、「先手と手先」、「物色と色物」などがあげられます。もちろん探せばいくらでも出てくるはずです。
なにしろ日本語は中国から漢字を借りてきているのですから、普通の言語とは違います。例えば漢字に日本に適合するものがない場合、新たに漢字を作りました。それを国字と称しています。漢字の仲間ですが、厳密には漢字と区別されています。その特徴は音読みがないことです。よくあげられるのが「辻」とか「畑・畠」「榊」ですね。偏を替えることによって複数の国字が作られたのが「裃・峠」です。
46若山牧水の「白鳥は」歌をめぐって(近代12) 2025.12.9
確か中学校の授業で若山牧水の、
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染(そ)まずただよふ
という短歌を習いました。いい歌だなと思っただけでなく、うっすらとした記憶ですが、「白鳥」をどう読んだらいいのか悩んだ覚えがあります。教科書にルビが施されていたのかどうか、今となっては判然としません。
これを「はくちょう」と読んだら、鳥の種類が決まるし、大きな鳥になります。さらには白鳥が飛来する時期・場所まで絞り込めます。これを「しらとり」と読むと、鳥の種類は特定できません。白い鳥ならなんでも構わないからです。またサイズも「はくちょう」よりは小さくなりそうだし、季節も場所も限定されません。
「はくちょう」と読むか、それとも「しらとり」と読むかでこれだけイメージが違ってくるのですから、普通だったら教科書にルビが付いていてもおかしくありませんよね。とここまで来て、どうやら作者である牧水自身の読みが、途中で変更されていることがわかりました。初版では「はくてう」と読んでいたものを、後になって「しらとり」にしていたのです。
調べてみると、初版は明治40年の文芸雑誌「新声」12月号に、
白鳥(はくてう)は哀しからずや海の青そらのあをにも染まずただよふ
とあり、「白鳥」に「はくてう」とルビが打ってありました。それは牧水23歳の時(早稲田大学在学中)です。それが翌年7月に刊行された第一歌集『海の声』では、
白鳥(しらとり)は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
と修正された形で掲載されています。「白鳥」の読みが変わっただけでなく、空と海の位置までも入れ替わっています(かなり大きな推敲ですね)。
この間に一体何かあったのでしょうか。読者から「はくちょう」ではおかしいという指摘でもあったのでしょうか。それはわかりませんが、牧水自身が最終的に「しらとり」にしたことは間違いなさそうです。ということで、最近の教科書では「しらとり」と読ませているようです。でもあえて「白鳥」とだけ書いて、それをどう読むか、それはどうしてか、二つの読みでどう違うのかを考えさせる材料にするのも悪くないですね。
さらに「白鳥」はどんな状態ですか、上空を飛んでいるのですか、海に浮かんでいるのですか、「白鳥」は一羽ですか複数ですか、「哀し」はどんな感情だと思いますか、「や」は疑問ですか反語ですか、それで訳がどう違ってきますか、「空の青」と「海のあを」(対句)の表記が異なっているのは何故だと思いますか、またその色にどんな違いがあるのでしょうか、「染まず」というのは何が何に「染まず」ですか、「ただよふ」とはどんな意味・状態ですか、などなど考える材料はいくらでもあります。最後に各自に歌のイメージを絵に書かせてみるのも面白そうですね。
ところでみなさんは、この歌からどんな印象を受けますか。牧水は本当に悲(哀)しそうな「白鳥」を歌っているのでしょうか。それとも「白鳥」は何かの比喩なのでしょうか。「白鳥」に問いかけているようでありながら、実は自分に問いかけていると見ることもできそうですよね。そのことを考える材料は、牧水の第三歌集『別離』にありました。というのもこの歌を再録するにあたって、
女ありき、われと共に安房の渚に渡りぬ。われその傍らにありて夜も昼も断えず歌ふ。
という詞書が改めて付けられているからです。ここで牧水は、この歌を恋の歌として鑑賞させようとしていることがわかります。「女」というのは、当時恋愛関係にあった園田小枝子のことだとされています。もちろん中学生の頃の私に、そんな解釈はできませんでした。
もっともこれは、牧水の作為かもしれません。『別離』(明治43年刊)においてこの詞書を付け足したことで、この歌の解釈を変更あるいは限定しようとしているのでしょう。「安房」とあるからには、この歌は千葉県房総半島の海岸で詠まれたとしか考えられません。となると「白鳥」にしても「カモメ」が最適になるというわけです。その「カモメ」の孤独(青春の愁い)を恋の悩みに置き換えてもいいのでしょうか。むしろこんな詞書などない方が、歌の世界が広がるように思えてなりません。
なおこの歌は、昭和22年に小関裕而が作曲して、「白鳥の歌」として大ヒットしました。私たちが「白鳥は」歌に馴染んでいるのは、ひょっとすると歌謡曲としてメロディが耳に残っていたからかもしれません。
45「ひさかたの」は「光」にかかる枕詞ではなかった(古典12) 2025.12.2
名歌として名高い紀友則の「ひさかたの」歌ですから、特に問題点などないと思われているようです。実はそこに常識の落とし穴がありました。というのも、「ひさかたの」は決して「光」にかかる枕詞ではなかったからです。
従来、「ひさかたの」は「光」にかかる枕詞として済まされてきました。どの百人一首の本を見ても、あるいはどの古語辞典を見ても、一律に「光にかかる枕詞」と説明されています。ひょっとすると高校古文の教科書の脚注にも、そう書かかれているかもしれません。ですから、それ以上の詮索はこれまで行なわれませんでした。
ところが具体的に用例を調べてみると、すぐに古い用例がないことに気づかされます。確かに「ひさかたの」は枕詞であり、「天・雲・空・月」等にかかる例は『万葉集』以下にたくさん見られます。ところが肝心の「光」に掛かった例は、どうやら友則歌以前には見当たりません。友則歌は初出であるばかりではなく、それ以降も「光」にかかった歌がほとんど見当たりません。用例がないのですから、「光」に掛かる枕詞とはいえませんよね。そのため鈴木日出男氏など、「「日の光」とあるべきところを略して、単に「光」とした。」(『百人一首』ちくま文庫)と説明しています。
しかしながら、「日」に掛かった例もほとんどありません。下って「久方の日照るかたにも冬の野はしみこそ増され色は見えずて」(賀茂保憲集119番)くらいしか例が見当たらないのですから、この説も簡単には認められそうもありません。この例の少なさでは、むしろ枕詞ではないとする方が妥当なくらいです。たとえば上坂信男氏は、「ここでは「久かた」すなわち「空」の意味で使っている。」(『百人一首・耽美の空間』右文選書)と、「久方」を「空」と訳すべきことを提唱されています。これも問題解決の一つですよね。
それにもかかわらず、どうして安易に「ひさかたのは光にかかる枕詞」という説明がこれまで幅を利かせてきたのでしょうか。その原因は、おそらく友則の「ひさかたの」歌があまりにも有名だったからではないでしょうか。この友則歌を先例として、『源氏物語』で「ひさかたの光に近き名のみしてあさゆふ霧も晴れぬ山里」(松風巻)と詠まれており、友則歌の力とそして『源氏物語』の享受史の中で、「光」にかかる枕詞として昇華されていったと考えることもできそうです。ただし『源氏物語』の「光」は「日の光」ではなく「月の光」ですから、そこに用法のずれが存していることも無視できません。
では「ひさかたの」と「光」の関係はどう説明すればいいのでしょうか。なかなか妙案は見つかりませんが、調べてみると『古今集』には「ひさかたの昼夜わかず」(1002番)という長歌がありました。前述の「久方の日照る」を合わせて類推すると、単独で何かにかかるのではなく「光」「昼」「日」に共通している「ひ」という同音を導く枕詞、とするのがもっとも妥当だと思われます。
そのことは既に『歌ことば歌枕大事典』に、
「日」や、「日」と同音を含むところから〈中略〉「昼」に続くもの、あるいは〈中略〉
「光」に掛かる用法などが派生した。(杉田昌彦氏執筆)
と説明されていました。もちろん「同音を導く枕詞」としても、用例数はたいして増えませんが、それでも「光」にかかる枕詞とするよりはずっと説得力がありそうです。この歌にはこんな重大な問題が隠れていたのです。さて高校でどう教えたらいいのでしょうか。
44 2026年は午年(番外11) 2025.11.25
早いもので今年も年の瀬になってしまいました。毎年この時期に考えるのは、来年の干支のことです。同女のコラムで、子年から始めて巳年(私の干支)まで何とか書き続けてきました。そして来年は午年になります。しかもただの午ではなく「丙午」です。この午年については、西暦を十二で割った時に十が余る年とされています。例えば来年の2026年・2014年・2002年などが午年でした。
まずは干支から絞り込んでいきましょう。午は干支の七番目に当たります。干支は十二ですから、ちょうど真ん中ということになります。これを方位に置き換えると南の方角になります。また時刻に置き換えるとお昼の十二時になります。干支の時間はそれぞれ二時間ですから、午前十一時から午後一時までに該当します。ついでながら午は一日の中間点ですから、十二時を境にして、それ以前を午前、以後を午後と呼んでいます。
旧暦では、二時間を三十分ごとに一刻から四刻までに区切ります。ちょうど真ん中、お昼の十二時が午の三刻で、これを正午と称しました。旧暦の時刻のややこしいところは、時刻の始まりを起点とするか、それとも時刻の真ん中を基準にするかです。これが統一されていないと、一時間のずれが生じてしまいかねません。古文の授業でも十分気を付けてください。
さて、午という漢字をよく見てください。牛(丑)とよく似ていますね。画数は同じです。違っているのは、上の横棒を縦棒が突き抜けているかいないかです。牛は角があるから突き抜けており、午には角がないから突き抜けていないと覚えておけば大丈夫でしょう。
肝心の丙午の年のことですが、もちろんどの干支もみな同じです。丙午にしても六十年に一度繰り返し巡ってきます。原則、午年は縁起がいいとされています。そもそも馬という動物は、前向きでエネルギーに溢れ、成功・繁栄のシンボルとまでされています。ですから午年はプラスの要素が多いといえます。
もともと馬は牛とともに人間の生活に欠かせないものでした。それに犬と猫を加えることもできます。ところが『万葉集』では非常に極端な使用が報告されています。というのも、牛と犬はわずか3例ずつしか出てこないのに対して、馬は「駒・赤駒・黒駒・黒馬・青馬」などの例を合わせて、なんと85首もの歌に詠まれているからです(猫の歌はありません)。獣の中でもっとも多く読まれています。これによっても馬と人の結びつきの強さがわかりますね。
それもあって馬にまつわる諺・格言も少なくありません。生徒に例をあげてもらってみてください。よく知られているものだけでも、「馬の耳に念仏(馬耳東風)」・「馬が合う」・「人間万事塞翁が馬」・「生き馬の目を抜く」・「天高く馬肥ゆる秋」・「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」・「老いたる馬は道を忘れず」などがあげられます。その他、神社に縁のあるのが「神馬」(白馬)や「絵馬」です。馬の漢字を逆さに書いた「左馬」もあります。それ以外にも「馬の骨」「馬面」「汗馬の労」「犬馬の労」「下馬評」「馬車馬のよう」「馬子にも衣裳」などいろいろあります。
ただし丙午だけは例外として扱われています。というのも江戸時代以降、丙午の年に生まれた女の子は縁起が悪いという迷信が広まっているからです。ただその迷信にしても、自然に発生したものではなかった可能性があります。というのも、人形浄瑠璃や歌舞伎に「八百屋お七」という演目があって、お七は愛しい人に会いたいために放火するという事件を起こし、火あぶりの刑にされました。
そのお七が「丙午」の生まれとされたことで、丙午生まれの女性全般に通じる迷信として広まったのです。おそらく「ひのえ」に「火」が読み取られたのでしょう。これは何の科学的根拠もない迷信にすぎませんが、迷信が信じられたために直近の1966年に生まれた人は、他の干支に比べて25%も少なかった(出生率が低かった)という統計が報告されています。これは夫婦の間で、もし丙午の年に女の子が生まれたら、将来縁談がまとまらないかもしれない、気性が激しいから育てるのが大変、迷信かもしれないが避けた方が無難だなどという理由で、妊娠・出産をためらった結果ではないでしょうか。しかも中絶の比率も高かったといわれています。さて2026年はどうなるのでしょうか。
なお馬に縁のある近隣の神社としては、
許波多神社(京都府) 競馬発祥の地で勝運の神として知られています。
貴船神社(京都府) 絵馬発祥の地で、縁結びや金運祈願のご利益があります。
上賀茂神社(京都府) 流鏑馬神事があります。神馬がいて、馬のお守りも豊富です。
藤森神社(京都府) 駈馬神事があります。馬の守護神として信仰を集めています。
春日大社(奈良県) 競馬や流鏑馬にゆかりのある馬出橋が残されています。
などがあげられます。ぜひ来年お参りに行ってください。
最後は白馬(あおうま)の節会についてです。これは正月七日の宮廷行事です。天皇が邪気を払うといわれる白馬を御覧になった後、宴を催します。中国では青毛の馬だったのを、日本で白馬に変更しましたが、読みだけは「あお」が残ったといわれています。というのも青は春を意味するので、正月の行事にふさわしかったからです。
43間違いやすい漢字熟語(日本語11) 2025.11.18
日本語が難しいのは今に始まったことではありません。主語が不明瞭だという意見は、かなり昔からありました。また日本語特有の曖昧表現も問題にされています。だからといって、日本語が他言語に較べて劣っているわけではありません。ただ、中国の漢字を借りてきて、それを元に日本語表記が形成されたことで、やや複雑かつ特殊な一面があることは否めません。ここでは間違いやすい漢字熟語を取り上げてみることにします。
最初に「危機一髪」と「危機一発」、どちらが正しい表現でしょうか。これはもちろん「一髪」の方が正解です。わずかなところ(髪の毛一本)で難を免れた時に使います。「間一髪」「紙一重」も同様です。ところが映画の「007危機一発」の放映によって、銃弾の一発が目に焼きついたことで、誤用が発生しました。でも誤用とはいえ見事なパロディ(言い換え)ですよね。これはこれで生き残ってもいいかと思います。
これに近い表現に、「間髪をいれず」(すかさず)があります。これに関して、多くの人は「間髪」を熟語ととらえて、「かんぱつ」と読んでいるようです。それが間違いなのです。試みにこれを漢文式に表記すると、「間不容髪」となります。漢字の順序をよく見てください。「間」と「髪」が離れていますね。これだと「間髪」は熟語ではありえず、「間、髪」と区切らなければならないことになります。その場合は「かん(に)はつをいれず」と読まなければなりません。つまり「かんはつ」(清音)が正解なのです。ただし「かんぱつ」が既に一般化してしまっているので、もはや間違いではなく、言葉の下克上として容認せざるをえないかもしれません。なお日本国語大辞典によると、最初に「かんぱつ」と誤読したのは、徳川夢声(弁士・朗読家)だったとのことです。
同様の例に「綺羅星のごとし」があります。これも「綺羅星」を熟語と思って、「きらぼし」と読んでいる人が多いようです。しかしながら「綺羅星」などという星はどこにも存在しません。もうおわかりのように、正解は「きら、ほしのごとし」です。これは立派な人が大勢並んでいることを喩えた表現だからです。
しかしながら有名な「きらきら星」という童謡からの連想が働いてか、国語辞典の中には、既に「綺羅星」(美しく輝く星)で立項しているものがあります。広辞苑第六版にも立項されており、「暗夜にきらきらと光る無数の星」と、当たり前のように説明されています。こうなるともはや間違いとはいえず、派生語として容認するしかありません。
では「和気藹藹」はいかがでしょうか。まずこれが正しく読めますか。「藹藹」は「あいあい」と読みます。和やかな気分が満ち溢れていることです。でも「藹藹」という漢字が難しいので、いつしか「愛愛」という当て字を使う人が出てきました。意味的にも「愛」で十分通用しそうに思えますが、表現としては明らかに誤用です。
続いて「出発進行」はどうでしょう。これなど決して四字熟語ではありませんよね。これは電車の運転手さんがよく口にしている言葉です。もともとは事故防止のために、出発を示す信号機が緑(進行)色に点灯していることを指差喚呼していたのですが、それが乗客に四字熟語に聞えたことで、いつしか出発の合図と受け取られてしまいました。これも本来は「出発、進行」と句切って読むべき表現だったのです。同じようなことは「電車」という唱歌の「チンチン、電車が動き出す」でもいえます。本来は「チンチン」で切れているのに、いつの間にか「チンチン電車」が一語になって定着してしまいました。
最後に「天地無用」はいかがでしょうか。よくダンボールの上あたりに、このシールが貼ってありますよね。この場合はどうも「無用」が誤解を招く原因になっているようです。本来は上下を逆さまにしてはならないという意味ですが、「無用」の曖昧さを突かれてしまい、逆さまにしても構わないという意味に受け取られることも少なくありません。そのため郵便局では既にこの用語は廃されており、わかりやすく「逆さま厳禁」と言い換えられているとのことです。またヤマト運輸では「この面を上に」と表示されています。なるほどこれなら間違わないですよね。ああ、やっぱり日本語は難しい。
42茂吉『赤光』の不思議!(近代11) 2025.11.11
斎藤茂吉の第一歌集『赤光』を読んだことがありますか。現在は安価な文庫本があるので、気軽に読めます。ただし気をつけなければならないのは、『赤光』が二種類存していることです。一つは大正二年に東雲堂書店から刊行された初版本系統です。もう一つは大正十年に刊行された改選版ですが、これはさらに大正十四年に改選三版として出版されており、茂吉自身はこれを定本としています。
初版と改選版でどう違うのかというと、まず所載されている歌の数が大きく異なります。初版では834首だったのですが、改選版では760首に削られています。それだけなら大した違いではないかもしれませんが、茂吉はもっと思い切った改訂を行なっていました。
というのも、初版は刊行年の五月に母いくが、七月に恩師伊藤左千夫が亡くなっており、その死を悼む歌(悲報来)から始まり、時代を遡って逆年代順に作歌を始めた明治三十八年までの歌が収められています。それに対して改選版は、配列をひっくり返して、明治三十八年から大正二年までを年代順に並べているのです。歴代の歌集で、こんな大きな改訂の事実は記憶にありません。これこそは『赤光』の不思議の一つといえます。
どうしてこんな大きな改訂が行なわれたのか、その理由の一つとして、大正十年に第二歌集『あらたま』を春陽堂から発行したことがあげられます。その際装丁に凝っており、『あらたま』の表紙を黒にし、東雲堂書店の『改選赤光』の表紙を赤にしています(赤と黒!)。そして『あらたま』は年代順に配列されているので、おそらくそれに合わせて『赤光』も年代順に改めたのではないでしょうか。普通、そんなことはしないはずですが。
もう一つ、大正十二年の関東大震災も忘れてはなりません。既に改選版が刊行された後ですが、初版本系統は結構人気があって、現代歌人の歌集にしては珍しく、版を重ねて売れていました。読者は感情的な初版と、平静な改選版という二つのバージョンから好きな方を選べたのです。ところがその二年後に関東大震災が起こり、初版のみならず『改選赤光』の紙型も焼失してしまいました。それもあって改選版どころか初版の再版発行もできなくなりました。
『あらたま』の出版元である春陽堂も被災しましたが、なんとか活字を組み直して再出版に踏み切りました。これにひきずられるように、春陽堂から『改選三版赤光』が出版されたのです。「三版」というのは、改選版を二版と見ての命名のようです。ただし『あらたま』の方は、活字を組み直したにもかかわらず、新版・改選版とは称していません。いずれにしても、これによって二つの歌集は名実共に姉妹編になりました。こういった事情があって、『赤光』と『あらたま』の初版本は稀少となり、古書価格が高騰したのです。もっとも『赤光』は、初版及び改選版がそれまでにかなり出回っていますから、『改選三版赤光』はさほど売れなかったようです。茂吉が改選三版を定本としたのは、あるいは売れ行きを気にしての戦略かもしれません。
ところで歌人斎藤茂吉はその後も長く活躍しており、生涯に十七もの歌集を出版しています。それ以外に未刊の歌集として『いきほひ』『とどろき』『くろがね』という三冊の戦争歌集の自筆草稿本なども知られています(他に『歌集稿本』・『萬軍』もあります)。これは第二次世界大戦という事情があって、出版できなかったものです。
面白いことに、第三歌集以下の売れ行きや評価は芳しくありません。結局、斎藤茂吉の代表歌集は最初の『赤光』でした。これがもう一つの不思議です。まだ若い(三十二歳)茂吉の第一歌集が生涯の代表作となると、文学に進化論は通用しないことになります。もちろん茂吉はずっと研鑽を積んできたはずです。それにもかかわらず、荒削りのはずの若い歌に傑作が多いというのは皮肉ですね(俵万智の『サラダ記念日』も同様です)。
なお売れ筋の『赤光』は、岩波書店と新潮社から文庫が出ています。新潮文庫の定本は初版本です。岩波文庫の定本は改選三版ですが、初版も付載されているので、一冊で二種類の『赤光』を同時に見比べることができます。これは便利なので一読をお薦めします。是非茂吉の歌集の謎を味わってみてください。
41「ちはやふる」か「ちはやぶる」か(古典11) 2025.11.4
マンガ「ちはやふる」(末次由紀作)の大ヒットによって、競技かるたに関心を示す子供達が激増したとのことです。そのアニメがさらにテレビの深夜放送で放映されたことで、知らない間に動画サイトで世界各国にまで浸透しているらしく、外国人の競技かるたへの関心・熱も急激に高まっているようです。
そして2016年、今度は実写版(広瀬すず主演)の映画まで製作されました。一般社団法人全日本かるた協会は映画に全面協力しているのですが、それによって大きな違和感が生じてしまいました。それがタイトルの「ちはやふる」か「ちはやぶる」かということです。ご承知のように、競技かるたの読みは「ぶる」と濁っています。それに対して映画のタイトルは「ふる」と清音ですから、気にならないわけはありません。協会の役員など、「どっちが正しいのですか」とか「どうして統一していないのですか」という問い合わせが殺到しないかひやひやしたそうです。
実はこの問題は、過去にもありました。それは落語の「ちはやふる」です。落語もマンガと同様に清音で語られているので、「どっちが正しいのか」という疑問の声があがっていたのです。ただし落語ですから、さほど目くじらを立てる人はいませんでした。それがマンガとなると、子供達がどっちで覚えたらいいのか混乱してしまうので、教育的にも無視できなかったのでしょう。
とはいえ、文法的にどっちが正しいという判定はできません。どちらも間違いではないというのが正解だからです。では何か別の解決策はないのでしょうか。そこで歴史を遡ってみると、古く『万葉集』では枕詞として用いられているのですが、その漢字が統一されておらず、「千磐・破」「千早・振」「知波夜・布流」などさまざまに表記されていました。そのうち「破る」は濁音ですが、「布流」は清音です。要するに『万葉集』の時点で、清濁両用が並存していたのです。もともと枕詞には意味不明のものも多いので、その方が納得できます。
それが平安時代以降、次第に清音の方に傾いていきました。『古今集』の声点でも清音とされているようです。なにより室町時代の「日甫辞書」に「チワヤフル」とあるので、その頃清音で読まれていたことがわかります。それが江戸時代にもそのまま継承されており、だからこそ落語は清音を踏襲しているのです。ですから百人一首においても、清音で読まれていた時代はかなり長かったことになります。
ところが近代の『万葉集』研究の中で、勢いの強い・勇猛な意味を有する「ちはやぶ・いちはやぶ」が語源と考えられたことで、「破る」の方が選び取られ、濁って読む方が主流になりました。最近の古語辞典など清音には一切ふれず、「ちはやぶる」だけで済ませているものも少なくありません。競技かるたの読みは、そういった時代背景の中で濁音になっているようです。
確認のため、最初の競技用かるたである「標準かるた」(明治三十七年成立)の読み札を調べてみたところ、なんと清音になっているではありませんか(既に濁音は表記されています)。それが次の「公定かるた」になると、濁音に訂正されていました。そうなると競技かるたが濁音になったのは、大正十四年以降ということになります。そのことは「公定かるた」の版元である東京図案印刷から出された『百人一首かるたの話』(大正十五年)の中でも、「ちはやぶるが正しい」とされていることによって確認できます。
それが現在まで受け継がれてきたのですから、かるた協会ではたとえ大した根拠がなくても、今さら清音に変更することは難しいのかもしれません。というより、マンガがこんなにヒットしなければ、清濁云々はここまで問題にならなかったでしょう。その意味で「ちはやふる」は、全日本かるた協会にとって「もろ刃の剣」なのかもしれません。
せっかくですから、これを機にきちんと清濁の是非を検討してみてはいかがでしょうか。なお私は清音でいいと思っています。だって業平は万葉歌人ではないのですから。なにより定家の時代には清音だったのですから、少なくとも百人一首の読みは清音でいいはずです。
40「元号」について(番外10) 2025.10.28
天皇の譲位に伴って、2019年の4月1日から新元号が「令和」に決まりました。これで五月一日のご即位によって、平成31年は令和元年に改元されます。今回の特徴は、従来の元号が漢籍を典拠としていたのに対し、初めて日本の古典から採用されたことです。
そもそも元号というのは、中国発祥のものでした。古く前漢の武帝が「建元」という元号を創始したとされています。必然的に中国の従属国(冊封国)は、中国の暦と一緒に中国の元号を使わなければなりませんでした。元号は暦の一部であり、また支配の象徴でもあったからです。日本が独自の元号を使用しはじめたのは、遅れて大化の改新(645年)の時からだとされています。その後しばらくは断続的に用いられていましたが、文武天皇五年(701年)に「大宝」が制定されて以来、今日まで長く元号が用いられ続けてきました。数えてみると新「令和」は、232番目の元号になります。
その間、本家本元の中国では、清が滅亡した際に元号も廃止されました。韓国など周辺の国々も建国に伴い元号をやめてしまったので、現在元号が残っているのは日本だけだそうです。もし第二次世界大戦敗戦後に天皇制が廃止されていたら、おそらく元号も同時に廃止になっていたでしょう。というのも、元号は君主制(天皇制)と不即不離の関係にあるものだからです。元号の廃止問題は戦後の国会で議論されました。昭和54年に元号法が制定されたことで、元号の存続が決定されました。ということで日本では、西洋暦と元号(和暦)の併用が今も行われているわけです。これも立派な日本文化といえます。
なお明治になって、元号の制度が変更になっていることをご存じですか。それ以前は、天皇の譲位とは関係なく随意に改元することができました。幕末の孝明天皇など、ご在位21年の間に嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応と六度も改元しています。それもあって明治政府は「一世一元」の詔(みことのり)を発布して、新天皇即位の時にだけ改元することにしました。その結果、昭和が日本で一番長い元号となっています(64年)。平成の天皇陛下は、ご高齢だった昭和天皇を身近にご覧になられていたこともあり、八十歳を過ぎたら譲位したい旨を述べられていました。それを受けて、明治以降初めて生前譲位が行われることになり、皇太子の即位に伴って改元されることになったのです。
さて出典を日本の古典に求めたことについては、かつて坂本太郎博士がそろそろ日本の古典から採用してもいいのではとおっしゃっていたそうです。日本の古典の中には、『十七条の憲法』や『六国史』・『勅撰漢詩集』あるいは『古事記』『風土記』など漢籍に準じた立派な著作がありますが、今回は『万葉集』が出典とされました。そのため万葉学者・中西進先生の発案ではないかと推測されたわけです。といっても「令和」は和歌の一節ではありません。天平二年(730年)正月13日のこと、大宰府に赴任していた大伴旅人の邸で梅花の宴が開催されました(当時は白梅です)。その宴で歌われた「梅花の歌三十二首」(815~846番)の序として書かれた漢文からの引用、というのが正解です。
参考までにその該当部分を短く抜き出してると、
時に初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮(はい)後の香を薫らす。
となります。時は初春のめでたい月、空気は清らかで風も穏やか、梅は鏡の前で白粉を塗った美人のように白く咲き、蘭(藤袴)は身に帯びた香が薫っている。ここには平和で穏やかな宴会の様子が綴られています。その中の「初春令月、気淑風和」が今回の出典です。おわかりのように「令和」という熟語があるわけではなく、対句になっている「令月」と「風和」から一字ずつ取って「令和」という造語に仕立てられています。
もちろんこの序は、漢籍を踏まえて書かれたものです。中国の張衡作「帰田賦」の「仲春令月、時和気清」(文選)や王羲之の『蘭亭序』の「天朗気清、恵風和暢」をお手本にしているので、純粋な和文(大和言葉)とはいえません。この中では特に「帰田賦」が一番近いですね。いずれにしても「令」は、今回初めて元号に用いられた漢字でした(ラ行の音も数百年ぶり)。この場合は命令・法律・長官・使役などの意味ではなく、「立派な・すばらしい・めでたい・良い」という意味です。また「和」は平和・調和・和睦というより「なごやか・おだやか・やわらぐ」の意味です。ということで「令和」には、「めでたい・おだやか」な世の中になってほしいという願いが込められているのです。
39「ルビ」の基礎知識(日本語10) 2025.10.21
新聞・書籍などを見ると、難しい漢字には右側(横書きの場合は上部)にルビ(振り仮名)が施されていますね。もっとやさしい小学生向けだと、漢字がひらがなに開かれるか、あるいは総ルビになっています。これは、使われている全ての漢字にルビが付けられているものです。ただルビが多すぎると、かえって読みにくく感じることもあります。
ではこのルビというのは、日本固有の文化なのでしょうか。今ではすっかり日本語化していますが、もともとルビは日本語ではありません。調べてみると、ルビは活版印刷にかかわる業界用語として、明治時代から使われていたことがわかりました。もちろんそれ以前の木版印刷にも振り仮名は施されていましたが、それを「ルビ」と称したことはありませんでした。
そもそも日本語の歴史では、中国の難しい漢字(お経など)に読み記号をあてたことが、仮名の起源とされています。それほど漢字を正しく読むのは大変だったのです。日本人は、振り仮名を付けるという知恵によって、難漢字を克服してきたのです。振り仮名は漢語と和語の橋渡しをしたともいえます。ですから日本人は振り仮名には慣れっこになっているのです。
それを踏まえた上で、問題の「ルビ」は活版印刷とともに外国から入ってきた言葉ということになります。その正体は「ruby」という英語でした。「ルビー」というと、宝石の一種です。何とルビは宝石に由来する言葉だったのです。
もともとイギリスでは、4、5ポイント活字のことをダイアモンド、5ポイント活字のことをパールと称していました。そしてそれより大きな5、5ポイント活字のことをルビーと呼んでいたのです。それが日本では5、5ポイントに近い7号活字(5.25ポイント)のことをルビと名付けたそうです。
この小さな7号活字は、日本においては主に5号活字の振り仮名に用いられました(号は若い数字の方が大きい)。これは新聞の紙面で使われることの多いサイズだったのです。それもあって、いつしかルビは活字のサイズ記号という本来の意味よりも、振り仮名のことを意味するようになったというわけです。ここで意味が大きく変遷しました。
もちろんアルファベット(英文)にルビは不要ですから、イギリスやアメリカではルビが振り仮名の意味で使われることはありません。ということで、イギリスと日本ではルビの意味が異なっていたのです。もちろん漢字の本場である中国にもルビはありません。こうなるとルビは、日本語特有の活字文化といえそうです。
厳密にいうと、ルビは出版業界の用語ですから、手書きの漢字に手書きの振り仮名を付けても、それはルビとはいいません。あくまで活字の振り仮名に限定されているのです。最近はパソコンが流通しており、昔のような活版印刷は消えてしまいましたが、それでもルビはパソコンに継承されて現在も使われています。
面白いのはルビの発展形として、漢字の読みとは無関係のルビが登場していることです。たとえば英語などの外来語に、その読みをカタカナで振ることがあげられます。ただし正確ではありません。発音記号ではないので、本来の発音とは異なっていますが、それでも簡単に読みがわかるというので、広く行われています。要するにルビは、英語と日本語の橋渡しもしているのです。これこそ日本人の知恵ではないでしょうか。
最近は、読みではなく意味を付ける特殊ルビも登場しています。たとえば「女主人」に「マダム」、「伝達」に「コミュニケーション」、「時間割」に「カリキュラム」と振られていたりします。これはいわゆるルビではなく、日本語に英単語をあてていることになります。逆に「プロテイン」に「たんぱく質」と振るのは、英語を日本語訳していることになります。また元号に西暦のルビを振るケースもあります。これはルビの注釈的活用ということになります。
こういった用法は、もはや本来的なルビではなく、ルビの進化系ということになります。ルビが本来の用途を超え、アイデアを発揮できる文学的行間として効果を発揮しているわけです。さて本来のルビを超えた新ルビ(創作ルビ)は、一体どこまで進化していくのでしょうか。みなさんも考えてみませんか。
38 金閣寺炎上! 2025.10.14
観光客で賑わう金閣寺ですが、その正式名称をご存じですか。はい、鹿苑寺ですね。もともとは三代将軍足利義満が応永四年(1397年)に建てた別荘を、後にお寺に改築したものです。漆地の上に金箔を張り巡らせたことで、江戸前期以降、「金閣寺」という別称で呼ばれるようになりました。その金閣寺が国宝に指定されていないことはご存じでしょうか。その理由は、戦後に再建された新しい建造物だからでした。
昭和二十五年七月二日の午前三時ごろ、鹿苑寺内の国宝建造物である舎利殿(金閣寺)から火の手が上がりました。新式の火災報知器が取り付けられていたのですが、数日前にバッテリーの故障で機能しなくなっていました。近くにいた僧や事務員による必死の消化も效を奏せず、消防車が駆け付けた時にはもはや手が付けられない状態でした。建物が全焼しただけでなく、第一層に収められていた国宝の足利義政の木造なども灰燼に帰してしまったのです。
鎮火後に現場検証が行われると、火の気がなかったところから、不審火(放火)の疑いが生じてきました。そこで西陣警察署は、勤めていた僧や事務員を徹底的に尋問調査したところ、一人だけ行方不明になっている人物が浮上しました。それは鹿苑寺の徒弟で、大谷大学の学生・林養賢(当時21歳)でした。
手分けして彼の行方を捜索した結果、裏の左大文字山でカルモチン(睡眠薬)を服用した上、手首を切って倒れているのが見つかりました。自殺を図ったようですが、致命傷には至らず一命を取り留めました。警察による事情聴取が行われると、火災報知機の故障を承知の上で、自ら放火したことを自白しました。動機については、「金閣寺の優美さを呪い、反感を抑えきれなかったから」と述べています。
事件後、福井県舞鶴市の自宅から林の母親が警察に呼び出され、事件の顛末を聞かされました。息子の不始末に大きなショックを受けた母親は、帰りの列車から保津川へ投身自殺してしまいました。被告人となった林は裁判にかけられました。同年十二月二十八年に懲役七年の刑を言い渡され、そのまま加古川刑務所に服役しています。
この放火事件をいち早く取材したのが、産経新聞京都支社の福田定一でした。彼こそは後に暦史小説家として活躍した司馬遼太郎その人です。焼けた金閣寺は、すぐに復元する計画が発表されました。地元の財界から多額の浄財があったからです。幸い明治期に大々的な修理が行われていたことで、再建に必要な設計図などは揃っていました。材木は全国から集められ、漆も外国から輸入されました。
また現場検証によって、修理以前にはもっと金箔が全面に施されていたことがわかったので、消失前のあまり輝かない金閣寺ではなく、改修前の光輝く金閣寺に戻して復元することになりました。そして焼失してから五年後の昭和三十年十月十日に落慶法要が営まれ、金色に輝く金閣寺が再び姿を現したのです。
服役していた林は、恩赦もあって五年で出所しました。それはちょうど金閣寺が復元された直後の十月三十日のことです。ただし結核が悪化したために、翌年の三月七日に亡くなってしまいます(享年二十六)。この一件が文学者の魂に火を付けたのか、放火の動機・放火犯人の内面の真実を暴き出すことに興味を抱いた小説家が二人現れました。
その一人が三島由紀夫で、放火事件の全容を『金閣寺』という小説として書き上げました。ここに描かれた主人公の心情は、林というより三島自身の心情が吐露されているようにも読めます(フィクション)。それもあって『金閣寺』は三島の代表作にもなっています。
ある研究者は、三島は小説の中で「金閣」と「金閣寺」を使い分けている。「金閣」は頭の中で思い描いているもので、「金閣寺」は実際に見ているものだというのです。ただし「金閣」は、象徴のみならず本物にも錯綜して用いられており、どこまで三島が使い分けようとしていたのかはわかりません。
もう一人が水上勉です。水上は林と同郷であり、同じく徒弟修業を体験していたことで、三島とは対照的に、林の心の内実に迫ろうとしました(ドキュメンタリー)。まず『五番町夕霧楼』を書き上げ、遊郭に売られた幼馴染の夕子を登場させています。さらにそれを改訂し、丸二十年かけて執念で『金閣寺炎上』としてまとめました。この二つを比較してみるのも面白いと思います。
37「雀の子を犬君が逃がしつる」に注目!(古典10) 2025.10.7
『源氏物語』若紫巻の垣間見場面は、「北山の春」という見出しで高校の教科書に頻出しているので、高校で習った人も少なくないでしょう。しかしながら高校で教えることには限界というか制約があるので、表層的な取扱いに留まっていることが多いようです。『源氏物語』の研究者としていわせてもらえば、もったいないなというのが正直な感想です。というのも、「北山の春」にはいろいろ検討すべきことが残されているからです。その一例が表題の「雀の子を犬君が逃がしつる」です。
この一文は問題なしと思われているのか、教科書でも「犬君」以外にコメントは付けられていません。その「犬君」にしても、授業でもっと自由に話し合いができるはずです。たとえば「犬君」をペットの犬と誤読した場合、それを否定できるでしょうか。あるいは性別を質問された際、猫は女性で犬は男性という答えに、どう対処できるでしょうか。
それだけではありません。「雀の子」とはどんな雀のことかという問いに、どう答えたらいいでしょうか。普通だったら雀の子供あるいは雛と回答したいところですが、それなら飛んで逃げられませんから、まだそのあたりにいるはずです。参考までに、『枕草子』に見られる「雀の子飼」は、雀を雛から育てることとされています。
実はこの「雀の子」にはやっかいな問題があります。教科書にはこの場面を描いた江戸時代の源氏絵がカラーで掲載されていますが、よく見るとその絵の中に飛んでいる雀が描かれています(探してみてください)。そうなると、少なくとも絵師は「雀の子」を既に巣立った飛べる雀として解釈していることになります。ですからこの「雀の子」の意味についても、自由に討論させたらどうでしょうか。なお「雁の子」の意味は雁の卵のことですから、「雀の子」には含みがあるのです。
ここまでは文法とは無縁のものです。もう一つ残っているのは、末尾が完了の助動詞「つ」の連体形になっていることです。普通末尾が「連体形」になるのは、前に係助詞の「ぞ・なむ・や・か」があって、その係り結びになっているからですよね。そこで文法的説明として記されているのは、「連体形止め」です。この場合は、あえて文末を連体形で止めることによって、余韻・余情・詠嘆を表すと説明されています。さらに強意とか感情を込めるという説明もできそうです。
そしてこの説明を確かなものにしているのが、たとえば学研の「古語辞典」に、
「主格」の「が」を受ける述語は、中古までは連体形で、中世以降は終止形となる。
と補足説明が施されていることです。「北山の春」の例はまさにそれにピッタリ当てはまりそうです。古語辞典がここまではっきりとコメントしているのですから、それ以上の詮索は不要ということで、この件は「連体形止め」で解決され、これを踏まえた語釈や現代語訳が施されているのでしょう。
ところがインターネットの「専大日語・コラム」二〇一七年十月に、「「 すゝめの子をいぬきかにかしつる」―主格ガは平安時代にあったのか―」という面白いコラムが掲載されていました。これを読むと「連体形止め」の用法の実例は、『源氏物語』と同時代ではごく稀にしかないこと、しかも韻文(和歌)の例がほとんどであると述べられています。その上で、問題の箇所は会話部分(散文)ですから、これを連体形止めするとこの時代としては非常に稀少例、むしろ例外というほかないと断じられています。
これを信じれば、『源氏物語』における会話文中の「連体形止め」は、決して普通に見られる用法ではなかったことになります。さらにこのコラムではそのことを前提として、「犬君が」の「が」を主格ではなく係助詞の「か」とすることの可否を論じていました。確かに「か」を文字通り係助詞とすると、通常の係り結びによって助動詞「つ」が連体形に変化していることになるので、疑問はたちまち解消されます。意味としては、雀を逃した犯人について、「が」だと犬君に断定していることになり、「か」(疑問・反語)だと犬君かだれかと婉曲にいっていることになります。この説でも文法的には問題なさそうですね。
ついでながら「が」について、仮に「が」がなければ「雀の子を犬君逃がしつ」と終止形になるという説明もありました。これについてはあくまで仮説なので、紹介するにとどめておきます。いずれにせよこの短い一文の中に、もっと授業で活発に議論できそうな問題が潜んでいることは間違いありません。
36絶滅寸前の「いろはかるた」(番外9) 2025.9.30
ことわざには正反対の意味を有するものがあります。例えば「下手の横好き」ともいうし、「好きこそものの上手なれ」ともいいますね。また「蛙の子は蛙」ともいうし、「鳶が鷹を産む」ともいいます。それから「血は水よりも濃し」ともいうし、「遠くの親類よりも近くの他人」ともいいます。どちらも真実なので、その場その場で上手く使い分けているのでしょう。それが昔の人の生活の知恵だったのです。
それとは別に、同じことわざなのに、二つの相反する意味が担わされているケースもあります。「情けは人のためならず」がその好例です。本来は、人に親切にしておけば、必ず自分にもいい報いがあるという意味でした。ところが表現のあいまいさを突かれて、反対の意味が付与されてしまったのです。新解釈では、むやみに人に親切にするのはその人のためにならない意とされています。みなさんはどちらで覚えていますか。
同様に「犬も歩けば棒にあたる」も、両義的に解釈されるようになっています。本来は、用もないのにうろうろしているとひどい目にあう、だからじっとしていなさいという意味でした。それが明治初期の「新板いろはたとへ双六」(大橋堂)を見ると、「棒」が「坊」に置き換えられ、さらに子どもから菓子をもらっている犬の絵が書かれています。さらに画面の中に、「犬曰く、しめたしめたあるけばかほう(果報)にありつく」とあるのですから、出歩いていると思わぬ幸運にありつくという新解釈になっていることがわかります。ここも表現のあいまいさを逆手にとって、マイナスからプラスに意味を変化させているのです。これも日本語の特徴なのでしょう。
ところで最近は、どこの家庭でも「いろはかるた」で遊ばなくなったようですね。ゲーム機の広がりによって、一家団欒の場(昔の遊び)は奪われてしまったようです。子どものころに「いろはかるた」で遊んでないと、そこに盛り込まれていることわざに接する機会まで逸してしまいます。そのため大学の授業で、あなたの覚えている「いろはかるた」の「い」は何ですかと尋ねても、知らない、覚えていないというそっけない答えが急増しています。これは冗談ではなく本当の話(現実)です。
こちらの目論見としては、「犬も歩けば棒にあたる」なら「江戸いろは」、「一寸先は闇」なら「京いろは」という風に、ことわざの違いによる地域性を確認したかったのですが、学生が諺を知らなければ話はそこで終わってしまいます。現在、百人一首かるただけは競技かるたとして生き残っていますが、昔流行った「花札」や「いろはかるた」は、遊びとしてもはや「風前の灯火」のようです。いわばかるたの絶滅危惧種ということになります(武士が遊んだ「漢詩かるた」も、かろうじて三重県で保存・継承されているだけです)。
その理由の一つは、ことわざの中に差別語が含まれていることのようですが、それくらいなんとでもなります。このまま手をこまねいて途絶えるのを待つのでしょうか。それとも「トキ」のように保護活動を積極的に推し進めるべきなのでしょうか。京都は「いろはかるた」の始発ともいうべき「京いろは」発祥の地であるだけに、遊びながら学べる庶民の知恵を絶滅させるのは、いかにも惜しい気がしてなりません。なんとか学校教育玩具として取り入れてもらえないものでしょうか。
残念なことに「いろはかるた」の学会や研究会は存在しません。関連するものとして「ことわざ学会」と「日本ことわざ文化学会」がありますが、かるたの普及活動などは行っていないし、活動は既に休止に近いようです。一九八八年に発足した遊戯史学会は二〇一七年をもって解散しました。また最近「日本郷土かるた協会」が設立され、群馬の「上毛かるた」を中心に普及活動を行っていますが、本家というべき「いろはかるた」の保存活動は今のところまったく行われていません。
35 外国人留学生が読みにくい漢字(日本語9) 2025.9.24
「来」という漢字は平凡で、音読みが「らい」で訓読みが「くる」ですから、取り立てていうことはありません。ただ古典ではこれを「きたる」とも読むので、それだけ気を付けていれば大丈夫です。そんな簡単な漢字ですが、熟語の中に一つだけ読みにくいものがあります。それが「出来」です。しかもこれには二つの読み方があるので、そのどちらなのかを判別しなければなりません。
幸い少し前まで可能の「できる」を「出来る」と表記していたので、こちらの読みで迷うことはなさそうです。ただし「出来レース」の意味がわからない人は少なくないかもしれません。これは出来合いのレース、つまり最初から勝敗が決まっている八百長レースのことです。滅多に耳にすることはないので、「出来」とあったら取りあえず「でき」と読んでみてください。
それとは別に、単行本の帯によく「重版出来!」とあります。新聞広告などにも出ていますから、目にしたことはあるはずです。この熟語だけが「らい」と読まずに「たい」と読まれています。もともとは「しゅつらい」だったのでしょうが、それが発音しやすいように変化して「しゅったい」になったのでしょう。日本人でも読めない人がいるので、外国人留学生には難解なようです。
ついでに「重版」というのは、出版して売り出された本の売れ行きがいいので、出版社が増刷する時の用語です。最初が初版、それ以後二版・三版(あるいは二刷・三刷)と増刷されるのが重版です。これは著者にとっては非常にうれしいことでした。ということで「重版出来」という四字熟語を是非覚えてください。
それに対して、一つの漢字に読み方が多数あるものもあります。以前「生」について述べましたが、それには及ばなくても「明・下・清・行・日」などは、読みの多い漢字です。熟語の読みを含めると、それぞれ十個以上の読みがあります。その使い分けが留学生にはやっかいなのです。しかも何故そんなに読み方が多いのか、合理的に説明することも難しいですね。
試しに「下」を使った例文をあげてみましょう。
トイレが詰まります!レバーを下まで下げて下さい
これは本当に公衆トイレに貼ってあったものだそうです。何が問題かというと、末尾に「下まで下げて下さい」と「下」という漢字が三つ続いており、しかも読みが「した・さ・くだ」と違っています。日本人なら普通に読めますが、外国人には難しいでしょうね。
次に「日」についての例文を見てみましょう。
三月一日は日曜日で祝日、日本では晴の日でした。
よく見ると「日」という漢字が六つもあります。これは日本語教育でもしばしば取り上げられている例文です。やはり日本人なら何の苦もなく読めるでしょうが、外国人留学生にとっては「日」の使い分け(読み分け)がやっかいです。というのも、あえて読み方の異なる「日」が並べられている変な文章だからです。最初の「三月一日」から難解です。これは日付ですから「いちにち」ではなく「ついたち」と読まなければなりません。これが二日なら「ふつか」ですからやはり特殊ですよね。次に「日曜日」とあります。これは英語のサンデーを「日」に置き換えたもので、当然マンデーは「月」になります。これは「にちようび」でいいのですから、単独なら比較的やさしい読みといえます。
それに続いて「祝日」とありますが、これは「しゅくじつ」と読まなければなりません。さらに「日本」とあります。国名の「日本」については既にお話ししました。最後が「晴れの日」ですが、これは「ひ」と読んで問題ありません。それより「晴れ」の方が面倒です。というのも「晴れの日」にも二つの意味があるからです。日本人ならこれが特別な日のことだと理解しているでしょうが、外国人にとっては天候、つまり晴れている日と受け取られそうです。
ご承知のように「晴れ」には、「晴れているか曇っているか」という天候より、もっと重要な「晴れ」と「褻(け)」の区別があります。これは非日常と日常といってもかまいません。その特別な日に着るのが「晴れ着」であり、人生で大事な場面が「晴れ舞台」です。この概念、外国人には理解しがたいですよね。いずれにしてもこの短文に出ている六つの「日」は、「ついたち」「にちようび」「しゅくじつ」「にほん(にっぽん)」「はれのひ」と全て読み方が異なっています。必ずしも法則性があるわけではないので、上手に使い分けるのは至難の業です。
もう一つ、これに類した文章もあげておきます。
一月一日、元日の日曜日、日本晴れ、今日は良い一日になりそうだ。明日の二日は布団を天日干ししてから初日の出の絵日記を書こう。
なんとこの一文には「日」が十二個も用いられています。間違わずに読めるかどうか、試してみてください。
34 井伏鱒二『山椒魚』をめぐって(近代9) 2025.9.17
井伏鱒二の代表作といえば、『山椒魚』をあげる人が多いと思います。実は井伏自身も気に入っていたようで、常に著作集の巻頭に収めていました。その後、昭和59年に中学校の国語の教科書に採用され、遅れて高校の教科書にも採用されたことにより、教科書で読んだ人が増加していきました。
ところでみなさんは山椒魚を見たことがありますか。昔は田舎の川にも生息していたのですが、最近はほとんど見かけなくなりました。そのため魚の一種だとかイモリの仲間だと思っている人も少なくないようです。ですが山椒魚は「魚」とあっても魚の仲間ではありません。またイモリの仲間でもありません。サンショウウオという独立した科に属する両生類です。
では何故「山椒魚」と称されているのでしょうか。実は山椒魚は食用にされていました。料理するために体を割くと、山椒に似た薫りがしたことで山椒魚と命名されたそうです。別称というか、古名を「椒魚」(はじかみいを)と称したそうで、古く『日本紀略』延暦16年(797年)8月16日条に「長尺六寸。形異常魚。或云椒魚。在深山沢中」とあります。また「鯢」という漢字をサンショウウオとした例も、『言継卿記』天文2年(1533年)2月10日条に「帰路に中御門へ罷向、鯢之汁有之、仍飯取寄」とあって、やはり食されていたことがわかります。
もう一つ、面白い別称があります。それは「はんざき」です。特に大山椒魚のことを「半裂」と称したのは、トカゲの尻尾のように、切断された手足を再生させるオオサンショウウオの能力を見知っていたからです。この再生能力が誇大解釈され、たとえ半分に切られても、生き延びて再生したという民間伝承があったようです。
肝心の井伏ですが、かつて通っていた中学校で、池に二匹のオオサンショウウオを飼っており、放課後に友人と蛙を与えたところパクッと食べたことから、それ以来、蛙を捕まえるのが日課となったそうです。これで作品の材料は揃いましたね。
その中学校の思い出をもとに、井伏は大正12年に体が大きくなって、岩屋から出られなくなったサンショウウオの悲嘆をユーモラスに描き、早稲田の同人誌に『幽閉』というタイトルで発表しています。何故タイトルが「幽閉」なのかについて、井伏自身は「これはその頃読んだチェホフの「賭」に感激して書いたもの」と告白しています。その「賭」は15年の間、人との交わりを絶って「幽閉生活」を自ら送ってみせるというものでした。もっとも内容的にはさほど似ていません。
井伏はその『幽閉』を大幅に改稿して、昭和4年に『山椒魚』というタイトルで同人雑誌『文芸都市』5月号に再発表しています。その後、井伏の作品集『夜ふけと梅の花』の巻頭に収録されたことで、井伏の代表作としての地位を確立しました。その『山椒魚』のもとになったものとして、今度は19世紀のロシアの作家サルティコフ・シチェドリンの『賢いカマツカ』という作品が指摘されています。「カマツカ」というのはコイ科の魚で、世間から逃れて水中のねぐらに閉じ籠る話なので、確かに類似しています。井伏自身はシチェドリンについて言及していませんが、彼の作品に触れた可能性はありそうです。
ところでこの『山椒魚』最大の問題は、昭和60年に新潮社から自選全集が刊行される際、87歳になった井伏自身によって結末部分が10数行にわたって大幅に削除されたことでした。そのため蛙との和解も末尾の「今でもべつにお前のことをおこつてはゐないんだ」もなくなり、二匹の緊張状態は続くことになりました。この突然の改稿は、当然文壇に大きな波紋を呼びました。そして削除に対する賛否のみならず、作者の真意についての議論、そして「作品」はいったい誰のものかまで発展しています。
これを踏まえて最近の教科書では、新たに「『山椒魚』の寓意性を考える」という課題が提起されました。「寓意」というのは、ある意味をほのめかすことです。さてみなさんは『山椒魚』からどんな寓意を読み取りますか。
33『徒然草』の「猫また」をめぐって(古典9) 2025.9.9
かつて教育実習の視察に出かけた時の話です。その日の研究授業は古文で、教材は『徒然草』の中でも有名な八九段「奥山に、猫またといふものありて」(新編全集151頁)の条でした。この「猫また」は、日本では古くから知られた妖怪で、なんと藤原定家の日記『明月記』天禄元年(一二三二年)八月二日条にも出ています。そこには「其の体は犬の長の如し」云々とあるので、あるいはこの記事から兼好法師は飼い犬の起用を思いついたのかもしれません。もちろん定家にしても、実際に「猫また」を見たわけではありません。
『徒然草』の作者として有名な兼好法師(最近、吉田兼好は×です)は、実は藤原定家を祖とする二条流歌道で和歌四天王の一人と称された歌人でした。その筋から「猫また」のことが伝わった可能性も考えられます。もちろん兼好の創作ということも否定できません。いずれにしても歌人としての兼好は、文学史的には『徒然草』の作者以上に重視すべき存在なので、現在の文学史は早急に修正する必要があります。
さて、実習生は自ら作成した教案にそって冷静に、そして淡々と授業を進めていました。話の内容はそれほど難しいものではないのですが、生徒が最初にひっかかったのは、「何阿弥陀仏」(151頁)という人物呼称でした。発音の類似からか、「何」を「南無」と混同していたようです。こういった呼称は当時の連歌師、というよりも時宗の法師が好んで用いたようですが、例えば能楽で著名な「世阿弥」「観阿弥」などの例もあげられます。室町期には、唐物を管理した同朋衆の存在も看過できません。
それに関連して、この何阿弥陀仏が「法師」「僧」「主」と異なる呼称で何度も言い換えられていることに気付かず、別人が登場していると思っている生徒もいました。また「賭物」(景品)を「掛け軸」と勘違いした生徒もいたようです。ここでは法師とは名ばかりの、俗っぽい連歌好きの俗出家であることに留意させるべきでしょう。
思わず吹き出してしまったのは、最後の一文です。単純に話の展開にそって進んだためか、何阿弥陀仏が「はふはふ家に入」(152頁)った時、そこではじめて飼い犬が飛びついてきたと真面目に解釈した生徒がいたからです。臆病な何阿弥陀仏が、出迎えてくれた飼い犬を「猫また」と誤認したために起こった事件のおかしさを読みとれず、本当に「猫また」に襲われたと信じてしまったのでしょう。なお、現在ではペットとして犬を飼うことは普通ですが、当時はかなり珍しかったかもしれません。
さて、本文は主観的に何阿弥陀仏の視点から、「音に聞きし猫また、あやまたず足許へふと寄り来て、やがてかきつくままに、頸のほどを食はんとす」(151頁)と記されています。すべては暗闇の中のできごとであり、臆病な何阿弥陀仏の恐怖心が「猫また」の幻影を生み出し、一人芝居をしている様が巧みに描かれています。実によくできた話です。おそらくじゃれついた犬もかなり大きかったのではないでしょうか。
とはいえ、何阿弥陀仏と同じ視点で本文を読むことに問題があろうはずはありません。しかし何阿弥陀仏が最後まで「猫また」の出現を信じて疑わないのに対し、読者はそれ以前に真相に気付くことが要請されています。そうでないと肝心の「落ち」がわからず、この話の面白さが半減してしまうからです(川に「落ち」てもダメです)。
この場合、末尾の「飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛び付きたりけるとぞ」(152頁)が、話の種明かしになっていることを生徒に読み取らせるためには、その冒頭に「実は」を補って訳すか、あるいは文末「とぞ」の省略された結びを考えさせるしかありません。「猫また」の正体が、実は何阿弥陀仏の飼っていた犬だったと暴露されることで、彼の臆病さと話の滑稽さが頂点を迎えることになります。新編全集の頭注には、「作者のえせ出家に対する嫌悪と批判とがいかに痛烈であったかを示すものである」とコメントされています。
教育実習の見学に出かけて、現役高校生の古典読解の力が低下していることを、あらためて実感させられた貴重な体験でした。そしてまた『徒然草』が古典入門として広く用いられている半面、必ずしも扱いやすい作品ではないことを再確認させられたひとときでした。やはり教え方には工夫が必要です。
32「口」に二画加えてできる漢字(番外8) 2025.9.2
ちょっと面白い漢字クイズを紹介します。これはたまたまテレビのクイズ番組で見たものです。それは「口」に二画加えてできる漢字をいくつ書けますか、という単純な問題でした。クイズ番組のように時間制限を設けられると、慌ててしまってうまく頭が働きませんよね。そこでここでは時間制限を設けないで、じっくり考えてみて下さい。その上であなたはいくつ漢字が思い浮かぶでしょうか。書けるだけ漢字を書いてみてください。どうやら二十七個はありそうです(実はこの見出しの中に、既に答えが一つ入っています)。
この問題を解く前に、少しだけ注意があります。それは「口」の大きさや形は問わないということです。大きな「囗」でも小さな「口」でも構いません。「口」の中や「口」の外も考えてみましょう。外といっても上下左右があります(あ、また答えが出てしまいました)。また横長の「口」でも縦長の「口」でも大丈夫です。なお書き加える二画は直線とは限りませんよ。
大きなヒントとしては、「口」は「十」との相性が非常にいいようです。さて「十」との組み合わせだけで、いくつ漢字が思い浮かびますか。最後にもし「口」に二画で行き詰ったら、「日」にあと一画という風に発想を変えてみるのもいいかもしれません(実は冒頭に答えが一つ出ています)。さあ挑戦してみてください。
いかがでしたか。では答えあわせをしましょう。まず「口」の中に「十」を入れたら、すぐに「田」ができますね。それで満足していたらダメです。その縦棒を上に伸ばすと「由」になります。反対に下に伸ばすと「甲」です。両方突き抜けると「申」ですね。これで四つもできました(横に伸ばすのはダメ)。次に「十」を「口」の上に付けると「古」という漢字になります。「古」をよく見て、「十」の横棒の左側を消すと「占」という漢字ができます。次に「十」を「口」の右に置くと「叶」になります。あれ、「右」もいけますね。その「右」の斜め上の棒を突き抜けないようにすると、たちまち「石」になりました。これでまた五個増えました。
ここで「口」を口へんだと考えてみると、「叶」の外に「叱」と「叩」が思い浮かびます。反対に「口」を右側に持ってくると、「加」という漢字がありました。もう少し「口」の上にこだわってみると、「古」・「占」以外に「台」と「召」が見つかります。反対に「口」の下に二画だと、「ハ」を書いて「只」です。それを長くすると「兄」になります。なかなか思いつかないのが「号」ではないでしょうか。
さらに「口」の上から右にかけてのスペースを考えてみましょう。まず思いつくのは「可」でしょうか。これも二画です。似たような「句」もあります。「同」は一画多いので×ですが、そこで諦めないで一画減らしたら「司」があります。こうやって関連させることで、漢字がどんどん膨らんでいきます。というか楽しくなってきましたね。
ではヒントで出した「日」に一画に移ります。「日」に横棒を足すと「目」ができます。ただし下が付き出た「且」や「皿」は×です。「日」の下に横棒を書くと「旦」になるし、左側に縦棒を添えると「旧」ができます。上にチョンと付けると「白」ですが、これはなかなか思いつかないかもしれませんね。
「田」や「目」の変形ということで、「囗」の中に二画を入れてみると、「人」が入って「囚」ができます。縦棒二本で漢字はできませんが、変形した数字の「四」なら大丈夫です。最後にかなり変形ですが、なんと「史」も該当します。これで二十七個です。さて、あなたはいくつ思いつきましたか。国語の先生ならせめて二十は超えてくださいね。
一つだけやっかいなものがあります。それは「叫」です。本来は三画なのですが、二画も旧字体として容認されているようなので、そうなると○にせざるをえません。「目」を横にした網頭の「罒(もう)」も悩ましいのですが、これは×にしておきます。なお、人偏に「囗」だと「個」の略字、国構え「囗」の中に「ト」を入れると「図」の略字になりますが、これも×です。「口」が複数になる「呪」や「咒」、「区」の旧字体の「區」も×です。また「巴」・「戸」・「尺」など線を延ばすのも×です。
さらに異体字、あるいはほとんど使われない漢字を探すと、「冋(けい)」・「叵(は)」・「另(れい)」・「叧(か)」・「叮(てい)」・「叨(とう)」・「叭(は)」・「叺(かます)」・「㕣(えん)」・「叴(きゅう)」・「囙(いん)」・「囜(じん)」の十二個もありました。この中の「叭」は「喇叭」という熟語でかろうじて生き延びています。また「叮」はかつて「叮嚀」として使われていました。こういった漢字が書けた人はすごいですね。
31 過剰敬語には要注意!(日本語8) 2025.8.27
ファストフードやファミレスやスーパーのレジで、「お会計のほう」「一万円からで」「よろしかったでしょうか」などといわれて違和感を抱いたことはありませんか。これは俗に「バイト敬語」と称されており、普段使い慣れていない敬語を使うことで生じたもののようです。接客用のマニュアル敬語とも称されています。そのため敬意がこもっているようには聞こえないこともあるし、中には用法が間違っている場合もあります。
例えば「よろしかったでしょうか」は「よろしいでしょうか」で問題なさそうなのに、何故わざわざ過去形にするのでしょうか。それに対して、これは過去形ではなく現在完了形と見て許容する国語学者もいるようですが、私はそれが納得できないでいます。中にはこれを北海道の特殊表現(方言の一種)だと分析する人までいますが、本当にそうなのでしょうか。幸いこのことがマスコミなどで話題になったこともあって、ファミレスやスーパー側が使わないように指導したことで、バイト敬語の一件は一応落着しました(もちろんまだ生き残っています)。
また催事などで、「司会を務めさせていただきます」と耳にした時、やはり妙な違和感を覚えました。これについては文化庁の答申があって、
1、相手側、または第三者の許可を受けて行う場合。
2、そのことで恩恵を受けるという事実
の二つの場合に限って、「させていただく」を使ってもいいとしています。ということは、それ以外は不適格なのですから、たいていの例は誤用ということになります。司会の場合は「務めます」で十分のようです。同様に「発表させていただきます」にしても「発表致します」で十分です。「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」ということです。
なおこれには進化形というものまであります。それは「送らさせていたきます」「やらさせていただきます」です。使う側は丁寧にいったつもりなのでしょうが、「ら抜き」の反対の「さ入れ」言葉になってしまい、やはり耳に違和感が残ります。これなど「送らせていただきます」「やらせていただきます」(さ抜き)で十分のはずです。「書かさせていただく」「いわさせていただきます」にしても、「書かせていただく」「いわせていただく」で問題ありません。「さ入れ」表現には十分注意してください。
これと似たようないい方に、「(キップを)拝見させていただきます」もあります。「拝見します」(見るの謙譲語)だけでも十分なのに、それにさらに「させていただきます」までつけているわけですが、不思議に違和感はありません。それと似ているのが「おっしゃられる」です。「おっしゃる」で「言う」の敬語なのに、さらに「られる」という敬語を加えているので、古典文法のいわゆる二重尊敬に該当します。「召し上がられる」も「召し上がる」でよさそうです。高貴な身分の方に対して使うのならともかく、一般に敬語は一つで十分ではないでしょうか。当然「おいでになられる」「お越しになられる」は、「おいでになる(お見えになる)」「お越しになる」でいいし、「お帰りになられる」「ご覧になられる」は「お帰りになる」「ご覧になる」で十分でしょう。「コーヒーをお飲みになられますか」にしても、「お飲みになりますか」で構いません。
ファストフードの場合、「店内でお召し上がりになられますか」など、「お召し上がり」は「召し上がる」(食べるの尊敬)に「お」が、さらに「になる」「なられる」がついた三重四重の過剰敬語になっています。これなどあっさり「店内で召し上がりますか」でよさそうですが、もう少し敬意を表した方がいいという判断が働くのでしょう。「ご注文をお伺い致します」「拝見致します」にしても「伺います」「拝見します」で十分です。ただしこれも耳馴れてしまったせいか、あるいは謙譲語だからなのか、違和感はあまりありません。
その他、よく考えると「とんでもごさいません」も奇妙な表現ですよね。「とんでもない」の「ない」「ありません」を丁寧な「ございません」に変換したつもりでしょうが、それなら「とんでもないことです」の方がよさそうです。丁寧すぎる敬語は、かえって相手を不愉快にさせることもあるので、くれぐれも過剰敬語には気を付けましょう。敬語表現は就職活動に役立つだけでなく、社会人としても大事なマナーです。
30 川端康成『伊豆の踊子』の主語論争(近代8) 2025/8/19
よく日本語は、主語が省略されやすいといわれています。そのため外国語に翻訳される場合、訳者が大量に主語を補わなければならないそうです。前に『雪国』を例に出しましたが、『伊豆の踊子』にはもっとやっかいな主語の問題がありました。それは小説の終章部分、「私」が踊子と別れて船に乗り込む場面です。
私が縄梯子に捉まらうとして振り返った時、さよならを言はうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。
この文章では、「さよならを言はうとした」のは誰か、ということが議論されています。その答は二者択一です。つまり「踊子」か「私」かどちらかということです。もともと動作主が抜けているので、そこに解釈の揺れが生じたのでしょう。これが大きな騒動になったのは、この部分を含む『伊豆の踊子』が、中学校あるいは高等学校の国語の教科書に採用されたからでした。それ以降、複数の国語の教師から教科書会社に何度も問い合わせがあったことで、研究者まで巻き込んだ論争に発展したのです。教える側としても、正解をはっきりしてほしかったのでしょう。
これに対して川端自身の回答は、
踊子にきまつてゐるではないか。この港の情感からも、踊子がうなづくのでなければならない。この場の「私」と踊子との様子からしても、踊子であるのは明らかではないか。「私」か踊子かと疑つたり迷つたりするのは、読みが足りないのではなからうか。
と強気でした。その根拠の一つは、「もう一ぺんうなづい」たとあることです。「もう一ぺん」とあるからには、それ以前に「うなづい」ていることが前提になります。そこで前に戻って調べてみると、
・踊子はうなづいた。
・私の言葉が終らない先きに、何度となくこくりこくりうなづいて見せるだけだった。
と二箇所に踊子がうなづいている描写が見つかりました。これを受けての「もう一ぺん」なのだから、うなづいたのは踊子以外にはありえない、という主張です。ちなみに「私」は一度もうなづいていません。それともう一つ、途中で主語が変わるから、最初が「私が」になっているのであって、主語が変わらなければ「私は」としているとも川端は主張しています。
ところが、川端は途中からだんだん弱気になってきたようで、次のように発言しています。
読者の質問にうながされて、疑問の箇所を読んでみると、そこの文章だけをよく読んでみると、「私」か踊子かと迷へば迷ふのがもっともだと、私ははじめて気が付いた。「〈本文略〉」では、「さよならを言はうとした」のも、「うなづいた」のも、「私」と取られるのが、むしろ自然かもしれない。 (「『伊豆の踊子』の作者」『一草一花』)
川端自身が責任をもって執筆したはずなのに、出来あがった物語世界の中で、言葉が作者の意識を超えて(作者を裏切って)、自律的に作品全体に影響を及ぼしていることに気付かされたのでしょうか。入試問題に文学作品の一部が出題されると、部分的な解釈と全体の解釈でずれが生じることがよくあります。ここもそれに近い現象と考えられそうです。しかしながら全体を見通して、それでも「私」を支持した人がいました。その代表者が翻訳者のサイデンステッカーです。彼の英訳を見ると、「I wanted to say good-by,but I Only nodded againn」となっており、主語は「私」として訳されていました。
もともと『伊豆の踊子』は、全体を通して「私が見た風に書」かれた作品でした。そのことが誤読を生じさせる最大の要因ともいえます。「私」が主体なのだから、「もう一ぺん」があるくらいでは、踊子を主語にすることはできないのです。そうなると『伊豆の踊子』の一人称の語りは、最後のところで破綻をきたしていたことになります。そのことに気付いた川端でしたが、増刷されても新版が出ても決して本文に手を入れることはしていません。ただし英訳の方は、1997年の再版で主語が「she」に訂正されています。サイデンステッカーは主語が移動したと理解したのでしょう。それに対して川端は、主語を補えば済むような問題ではなく、作品の本質にかかわるものだと考えたようです。
そんなことなどお構いなしに、『伊豆の踊子』は川端の出世作の一つとして、映画やテレビでもしばしば上演されています。今度映画を見る時には、この部分の主語が「私」か踊子のどちらになっているか、是非確認してみてくださいね。
29「おの」は物の怪用語!(古典8) 2025.8.5
些細なことですが、些細なことの中に、思いがけず重大な問題が潜んでいることがあります。これもその一つだと思われます。そう思ってお付き合いください。
そもそもの発端は『竹取物語』でした。かぐや姫が自らの出自を翁に語るところで、
おのが身は、この国に生れてはべらばこそ、使ひたまはめ、いと率ておはしましがたくや
はべらむ。61頁)
と口にしています。これは帝の求婚拒否の箇所です。また別れ(昇天)に際しても翁に、
おのが身は、この国の人にもあらず。(65頁)
と繰り返し述べています。さらにもう一度、
おのが心ならずまかりなむとする。(66頁)
と口にしていました。ポイントは自称表現の「おの」です。これを見て妙だと思った人はいるでしょうか。私自身、何の疑問も感じないまま読み飛ばしていました。
同様に『更級日記』にも、迷い猫が姉の夢の中に出てくる場面に、
おのれは侍従の大納言の御むすめの、かくなりたるなり。(302頁)
とありましたね。夢に出てきた猫は、自分は大納言(行成)の姫君の生まれ変わりであると告げています。私はこれを見ても妙だとは思いませんでした。猫がしゃべるのはおかしいと思った程度です。私は自分がいかに鈍いのかに気付けなかったのです。
いよいよ三度目の正直です。今度は『源氏物語』夕顔巻で、夕顔の枕元に出現した物の怪が、
おのがいとめでたしと見たてまつるをば尋ね思ほさで、(164頁)
云々と口にしている場面に出くわしました。これも源氏の夢の中の話です。ここに至って、感度の鈍い私もさすがにはっとしました。あ、これは物の怪がしゃべっているんだと気づいたのです。
あらためて『竹取物語』と『更級日記』と夕顔巻の本文を比較してみると、すべてに「おの」が用いられているではありませんか。ということで、ようやく「おの」という言葉に注目してみた次第です。あわてて用例を調べてみたところ、主体が男性(老人)ならば、竹取の翁も「おのが生さぬ子」(21頁)と言っており、何ら問題はなさそうです。しかし主体が若い女性となると話は別です。というのも当時の若い女性は、決して自分のことを「おの」とはいわないことがわかったからです。反対に老女とか尋常ならざるもの(物の怪・妖怪など)に用例が集中・固定していることがわかりました。
ですから、若いかぐや姫が「おの」と口にするのはおかしいのです。それを読み解くためには、この時点でかぐや姫は地上の人間ではなく、本性をむき出しにして異類(月世界人)として語っていることが読み取れます。それだけ緊迫した場面だったのです。それをわからせるために、わざわざ特殊な「おのが」を用いているとすれば、読者はそれを読み取らなければ話になりません。
『更級日記』の例も同様です。もともと大納言の姫君は既に亡くなっていました。その姫君が猫として生まれ変わったと告げているのですから、猫がしゃべったというより大納言の姫君の霊がしゃべっていることになります。ですからこれも尋常ならざるものとしての「おのれ」ということになります。
そして夕顔巻の物の怪ですが、この物の怪の正体はこの場では明かされていません。源氏にしても六条某院に棲む怨霊だろうと見ています。ただし後になって、これが六条御息所の生霊だったと思い当たることになります。この物の怪は、夕顔を憑り殺すだけの力を持っていました(葵巻では葵の上を憑り殺しています)。
ということで、ようやく「おの」が非常に珍しい自称表現であることがわかりました。その分、古典の読みが深まりました。反省の意味を込めて、私は「おの」を物の怪用語と規定したいと思います。これから古典で「おの」が出てきたら要注意ですよ。
28「今日も雨だ、天気が悪い」の解釈をめぐって(番外7) 2025.7.29
高校の国語に「論理国語」が新設されたことに対して、文学がますます疎かにされることを危惧した日本文学の諸学会は、団結して反対を表明しています。そんな中、令和2年4月20日の読売新聞朝刊「地球を読む」欄に、山崎正和氏の記事が掲載されました。山崎氏の文章は、必ずしも「論理国語」についての批判として書かれたものではないようですが、自ずから批判として読める内容になっています。
冒頭に問題提起がなされているので、まずそれを紹介しましょう。
「今日も雨だ、天気が悪い」という一文を読んで、これは論理的な文章であり、後段は同義語の反復だと解釈する人は、国語が分かっているとは言えない。前段は確かに叙事的な表現だが、後段の真意は「だから鬱陶しい」「気が滅入る」という抒情的な感想だと読むのが、常識だろう。
いかがでしょうか。これを読んだ私は、不遜にもこれでは言葉足らずではないかと思いました。まず「今日も雨だ」以下の短文を、「論理的な文章」と受け取った人は、そこで罠にはまっています。その後で山崎氏が「叙事的な表現」と形容しているのは、これを「論理的な表現」とは考えていないからに他なりません。そう思って読み進めると、「解釈する人」とあります。さてこれは誰を想定しているのでしょうか。「論理国語」推進派の人でしょうか、それとも国語が分かっていない新聞の読者(罠にはまった人)でしょうか。
それに続いて「後段の真意」とあります。この「真意」は、一体誰の真意なのでしょうか。文章を書いた人でしょうか、それともそれを解釈した山崎氏でしょうか。あるいは特定の誰かではなく、普遍的な意味でしょうか。どうやら山崎氏は、「天気が悪い」は「今日も雨だ」の「同義語」という表層的な解釈で済ませるのではなく、その裏にある心の内まで読み取らなければならないことを言いたいようです。だからそれを「叙情的な感想」としているのでしょう。
これを「論理的な文章」と対比させると、「叙情的な感想」はまさに「文学的な文章」と言いかえられそうです。最後に「常識」とありますが、それも山崎氏にとっての戦略的な常識のように思えてなりません。いずれにしてもこの文から、「叙情的な感想」の重要性、逆に「論理国語」の不十分さは十分伝わりました。
さて私は、最初に言葉足らずだと書きました。というのは、この文章の背景に「雨の降る日は天気が悪い」ということわざめいたものがあると思ったからです。ただし明治以前には遡れないようなので、明治以降に定着した表現と考えられます。意味は「あたりまえのこと」ですが、これを踏まえると「同義語の反復」というより、全体がパロディとしても読めます。
もちろん日本には、『古今集』以来の情景一致の技法が確立していました。表面では自然を詠じているようでありながら、その裏に人事を詠み込むという二重構造です。それを踏まえると、「雨」は「涙」の喩となるので、「人が泣いている」ことを読み取らなければならなくなります。だからこそ「鬱陶しい」とか「気が滅入る」(気分が晴れない)という解釈も可能なのです(単なる不快指数だけの話ではなくなります)。
次に細かなことに注目すると、「今日は」ではなく「今日も」になっていることが目につきます。「も」とあるのだから、きっと昨日も(一昨日も)雨だったのだろうという予測がつきます。雨が降り続く気候というと、即座に梅雨のシーズンが想起されますね。もしそうなら、それは決して個人の感想ではなく、みんなが共有している認識に広がります。それとは別に、長崎生まれの私は、クールファイブの「長崎は今日も雨だった」がすぐに頭に思い浮かびました。
「天気が悪い」にしても、仮に「天気も悪い」とあったら、天気以外に何が悪いのだろうと考え、気分も悪いことに思い至るでしょう。ところで、この「天気」というのは使い勝手の悪い言葉で、良いか悪いかどちらかにしか使えません。ただし普通に「今日は天気だ」という時は、快晴(プラス)を意味するようです。ややこしいですね。
かつてNHKの天気予報では、「明日はいい天気になります」といってはいけなかったとのことです。何故かというと、「いい」に価値判断が含まれるからです。というのも、中には晴れない方がいい人もいるので、その人たちのことを配慮したのだそうです。逆に雨だからといって、悪い(マイナス)と感じる人ばかりではありませんよね。
付け加えると、「天気」という言葉は、もとは気象用語ではありませんでした。「天」というのは人知の及ばない神の世界に属するものです。「雨」は「天」にも通じるのです。そこから比喩的に「天帝」「天皇」をも意味するようになりました。そうなると「天気」は、天皇のお気持ちという意味にもなります。
天徳四年に開催された「天徳内裏歌合」で、「天気左にあり」ということで兼盛の「しのぶれど」歌が勝った話は有名です。もし「天気が悪い」を、「天皇のご機嫌が悪いこと」と答える学生がいたら、きっと私は大喜びすることでしょう。「文学的な文章」はこんなにも奥深いものなのです。
27唱歌「春が来た」の「に」と「で」(日本語7) 2025.7.22
日本人ならあまり問題にならないことですが、日本語を学習している外国人から質問されて説明に困ることが多々あります。例えば唱歌「春が来た」という歌に出てくる「に」と「で」がその一例です。まずその歌詞をあげてみましょう。
1番 春が来た春が来たどこに来た山に来た里に来た野にも来た
2番 花が咲く花が咲くどこに咲く山に咲く里に咲く野にも咲く
3番 鳥が鳴く鳥が鳴くどこで鳴く山で鳴く里で鳴く野でも鳴く
見事に五音が連続していますね。これは明治四十三年の『尋常小学読本唱歌』にある曲ですが、東京音楽学校の高野辰之という有名な国文学者が作詞したものと言われています。彼は作曲家の岡野貞一と組んで、有名な「春の小川」「朧月夜」「もみじ」「故郷」などを作詞したとされています。なおこの歌には、春の到来を知る手段として「花」と「鳥」が用いられていますが、それにふさわしいのは「梅」と「鶯」でしょうか。問題は3番の歌詞が「に」から「で」になっていることです。さてみなさんはこの「に」と「で」の違いを説明できますか。
一般に日本語教育では、存在(状態)の場所が「に」で、動作の場所が「で」と説明されています。また「に」は動作や作用の到達点を示し、「で」は動作(行為)や作用が行われる場所を表すとも説明されています。確かに花は状態で、鳥の鳴き声は動作ですね。場合によっては、「で」は選択された場所を表すともいわれています。
こうやっていろいろ考えていると、後に来る動詞が異なっていることに気付きませんか。「来る」(行く)は「山に来た」とは言いますが、「山で来た」とは言いません。こういった接続の有無で用法を説明するのも、現代語学の有効な方法とされているようです。
もちろん動詞を共有するものもあります。その場合は微妙に意味が異なります。「公園にゴミを棄てるな」と「公園でゴミを棄てるな」はどうでしょうか。「で」は行為が公園内で行われるのに対して、「に」は公園外からの行為でも可能のようです。また「ここに寝て」と「ここで寝て」はどうでしょうか。「に」は病院の診察ベッドを示している感じで、「で」は人の家(空間)に泊めてもらう感じです。当然「に」は横になる意味であり、「で」は就寝の意味になります。「みんなに言う」と「みんなで言う」も意味というか言う方向が大きく異なりますね。
それが「も」と合体して「にも」「でも」となった場合、たとえば「子供にもできる」と「子供でもできる」はどうでしょうか。「でもしか先生」も同様です。かつてバスケットボールを素材にしたマンガに、「チビでも選手」というタイトルのものがありました。これなど対象外というか、できそうもないものを例にしているようです。この場合「チビにも選手」とは言いませんね。
肝心の「山で鳴く」ですが、これは「山に鳴く」でも使えます。その場合、意味はどう違うのでしょうか(違わないのでしょうか)。ちょっと難しくなってきました。「で」の場合は、複数の鳥がそれぞれ異なる場所で鳴いている感じです。それが「に」だと、一羽の鳥が飛びまわりながら場所を変えて鳴いている感じです。この答えに納得できますか。
さて、ここまでは現代語として考えてきました。ここで発想を転換して言葉の歴史的変遷を考慮してみましょう。すると「に」と「で」の使い分けはたちまち成立しなくなってしまいます。というのも、「で」は「にて」から発生した比較的新しい助詞であり、古典の世界には存在しないからです。古く『万葉集』には(では)、
・冬ごもり春さり来らしあしひきの山にも野にもうぐひす鳴くも(1824番)
・あしひきの山にも野にもほととぎす鳴きしとよめば…(3993番長歌)
などと歌われており、「鳴く」と「にも」が普通に結びついていました。また『古今集』仮名序にも「花に鳴く鶯、水に住む蛙」とあります(現代語でも「水で住む」とは言わない)。要するに「山で鳴く」は近代的(後発的)な表現だったわけです。古典を専攻する私の答えとしては、これがベストアンサーです。
それとは別に、春の訪れということでは、春は南から北へ、低地から高地へと推移するので、山→里→野という歌の順番には違和感があります。普通に考えれば里→野→山となるはずだからです。調べてみると、明治三十六年九月発行の『尋常小学読本』(巻五第二課)の「のあそび」に、「山に、来た。野に、来た。さとに、来た。」と出ていました。これが原典のようです。山の位置は変わりませんが、曲を付ける際に「野」が一音なので最後に回し、さらに「にも」をつけて語調を整えていると思われます。どうやらこの歌詞は初春の訪れの順序ではなく、春の盛りを謳歌している歌ではないでしょうか。
26川端『雪国』冒頭をめぐって(近代7) 2025.7.17
日本で最初にノーベル文学賞を受賞したのは川端康成の『雪国』ですね。二番目が大江健三郎で、三人目はまだ出ていません。毎年、村上春樹が候補にあげられていますが、いつになったら受賞するのでしょうか。それはさておき、ノーベル賞の候補にあげられるためには、日本語版だけでなく英語をはじめとする複数の外国語に翻訳出版されていることが条件のようです。というのも、審査する人たちが必ずしも日本語に堪能というわけではないからです。たとえ日本語の原作がすばらしくても、英訳がひどければ受賞できないということになります。
川端康成の場合は、サイデンステッカーが見事な翻訳をしています(作品名はSnow Country)。言いようによれば、彼の翻訳のお蔭で、川端は受賞できたわけです。あるいはサイデンステッカーは、日本人にノーベル賞を取らせるために川端を選んだともいえます。なんだか本末転倒ですよね。しかしそうとばかりもいっていられません。日本の文学を英語に翻訳するのは、しかも文学的に翻訳するのは、思った以上に大変な作業だからです。
『雪国』は「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」という一文から始まっていますが、たったこれだけの短文にも、結構大変な苦労があったようです。まず「国境」ですが、みなさんはどう読みますか。「こっきょう」ですか、それとも「くにざかい」ですか。周りを海で囲まれた日本だと、「こっきょう」にこだわりがないかもしれませんが、アメリカやヨーロッパでは地続きで他国と接しています。まさにトンネルを抜けたら外国ということが普通なのです。ですから「こっきょう」というのは、自国と他国の境になります。この場合、誤解されないためには「くにざかい」と読むのがよさそうです。
なおこのトンネルは、上越線に開通した全長十キロ弱の清水トンネルです。昭和六年九月一日に開通しましたが、当時は全国一長い大トンネルでした。「上越」の「上」は上野国(現在の群馬県)で、「越」は越後国(今の新潟県)のことです。それを結んでいるのが上越線でした。ですから古くは「くにざかい」だったことがわかります。ところが明治になって廃藩置県が施行され、「くにざかい」が消滅してしまいました。そのため若い人は「こっきょう」以外の読みを想定できなくなっているのでしょう。
このトンネルが縁で、昭和九年に川端は越後湯沢(湯沢温泉の高半(高橋半左衛門)旅館)を訪れるようになり、昭和十年から『雪国』の連載が始まりました。前に若い人といいましたが、どうも川端自身も「こっきょう」を意識していたようです。それを擁護する意見として、川端は「くにざかい」といった濁音は使わないという説もあります。参考までにレファレンス事例詳細を見ると、
『遺稿「雪国抄」』によると、音・訓との二通りの読み方があり、長谷川泉・武田勝彦らは「くにざかい」と読み、羽鳥徹哉は「こっきょう」と読んでいる。武田との対談で川端自身は「くにざかい」の読みを諾(うべ)なっている。日本国内の「境」であることから考えると「くにざかい」が正しく思われるが、詩的な語感から言えば「こっきょう」の方が強く澄んだ響きがある。『鑑賞日本現代文学』15と『日本国語大辞典』8では、「こっきょう」と読んでいる。
とありました。川端自身がルビを付けていないのですから、どう読んだかはわかりません。それにもかかわらず、第三者(研究者や教育者)があれこれ議論するのは奇妙ですよね。教科書ではどう読ませているのでしょうか。むしろ学校では、「くにざかい」と「こっきょう」の読みの違いから、意味の違いを考えさせる設問にしたらどうでしょうか。
アドリブですが、みなさんはこの冒頭文が斎藤孝の『声に出して読みたい日本語』に掲載されていることはご存じですよね。その初版では「こっきょう」とルビが振ってありました。ところが重版されたものでは「くにざかい」に訂正されていたのです。斎藤氏は「こっきょう」を誤りと認めたのでしょうか。それとも外部からの批判に応じたのでしょうか。そういえば『雪国』は何度か映画化されていますが、そこではどう読んでいるのか気になります。なお令和四年四月十六日の夜にBSプレミアムで放映された際、冒頭は「国境(こっきょう)の」と発音され、ラストで再度繰り返される際には「国境(くにざかい)の」と発音されていたそうです。
日本ではこんなに議論されていますが、では英訳はどうなっているのでしょうか。見ると、「The train came out of the long tunnel into the snow country」となっていました。これを日本語に戻すと、「汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た」になります。なんとサイデンステッカーはバッサリと「国境」を切り捨てていたのです。それはおそらく日本に外国との国境がないことを知っていたからでしょう。これも日本人とアメリカ人の視点の違いといえます。川端は列車に乗った主人公島村の視線で書いていますが、サイデンステッカーはトンネルから出てくる列車を俯瞰している第三者視点から書いているとされています。小説と翻訳では視点まで異なっているのです。
それはさておき、英訳で話題にされているのは「国境」ではなく、主語が列車になっていることでした。ご承知のように、日本語では主語の省略が許容されています。ところが英語ではそれが許されません。そう考えると、日本文学を英訳するのがどんなに大変かがわかります。サイデンステッカーは、たとえ川端の文章と大きく違うことになっても、英語圏の人にわかるような文章で翻訳しているのです。こういった翻訳は、ある意味では創作を含むリライト(加工)でもあります。
そのサイデンステッカーの英訳でノーベル賞を受賞しているのですから、それを日本人がとやかくいうのは見当違いだと思います。中にはサイデンステッカーの訳がへたくそだと非難する日本人もいたようですが、それは日本人だからいえることであって、外国では通用しません。ノーベル賞の決定権は外国人に委ねられているのです。いずれにしても、日本文学が世界の文学になるためには、上手な人に翻訳してもらうのが近道のようです。
25『更級日記』の唐猫をめぐって(古典7) 2025.7.8
『更級日記』の中に挿入されている唐猫の話は、非常に印象的なものでした。
五月ばかり、夜ふくるまで物語をよみて起きゐたれば、来つらむ方も見えぬに、猫のなごう鳴いたるを、おどろきて見れば、いみじうをかしげなる猫あり。いづくより来つる猫ぞと見るに、姉なる人、あなかま、人に聞かすな。いとをかしげなる猫なり。飼はむとあるに、いみじう人なれつつ、かたはらにうち臥したり。
姉おととの中につとまとはれて、をかしがりらうたがるほどに、姉のなやむことあるに、もの騒がしくて、この猫を北面にのみあらせて呼ばねば、かしがましく鳴きののしれども、なほさるにてこそはと思ひてあるに、わづらふ姉おどろきて、いづら、猫は。こち率て来とあるを、などと問へば、夢にこの猫のかたはらに来て、おのれは侍従の大納言殿の御むすめの、かくなりたるなり。さるべき縁のいささかありて、この中の君(孝標女)のすずろにあはれと思ひ出でたまへば、ただしばしここにあるを、このごろ下衆の中にありて、いみじうわびしきことといひて、いみじう泣くさまは、あてにをかしげなる人と見えて、うちおどろきたれば、この猫の声にてありつるが、いみじくあはれなるなりと語りたまふを聞くに、いみじくあはれなり。 (302頁)
作者の邸に猫がやってきました。その猫は当時かなり貴重な唐猫でした。それだけでなくその唐猫は、十五歳の若さで亡くなった大納言行成の姫君が転生したものとされています。父の孝標は菅原道真の末裔(兄の定義は文章博士)であり、かつて蔵人として行成(蔵人頭)の部下として働いたことがありました。そういった縁で、大納言の姫君の書道手本を貰い受けていたのでしょう。
なおこの猫は、作者の家が火事で焼けた際、「大納言の姫君と思ひかしづきし猫もやけぬ」(304頁)とあって焼け死んでいます(おそらく猫は紐で繋がれていたのでしょう)。しかしながら、それについての悲しみも火事の恐怖も日記に描かれてはいません。
ついでながら、この記事の前には作者の乳母の死、侍従大納言の姫君の死が記されています。それを受けて転生した猫が登場しているのです。その猫が焼け死んだ後、今度は姉の死が記されています。『更級日記』はそういった死の糸の連鎖で綴られているのです。
ところで、平安時代の猫はなんと鳴いたのでしょうか。『更級日記』の本文には、「猫のなごう鳴いたる」「なごう鳴く」とあります。これについて新編全集の頭注一四では「「なご(和)く」の音便。のどやかにの意。「なが(長)く」ではない。」と書かれています。ただし『蜻蛉日記』には、「鶏の声など、さまざまなごう聞こえたり」(289頁)とあるので、鶏の鳴き声であれば「長く」でもよさそうです。たとえ「長く」ではないとしても、これを猫の鳴き声「ニャーゴ」(オノマトペ)と解することもできそうです。
もう一つ、猫が登場する『源氏物語』若菜上巻を例に出してみます。六条院で行われた蹴鞠の場面で、女三の宮の御簾を開ける役として、効果的に唐猫が用いられています。柏木がその猫を引き取ってかわいがると、猫は「ねう」と鳴きます。この「ねう」は「寝む」(共寝)に通じることから、エロチックな用いられ方をしていることになります。本来、猫の役目はネズミを捕ることですが、唐猫は舶来の高級品ということで、貴族にペットとして飼われていました。『枕草子』にも命婦(五位)という猫が登場していますが、古典文学の中における猫の用例は、実のところさほど多くはありません。
24古典文学の中の「富士山」(番外6) 2025.7.1
「富士山」は日本一高い山として古来有名ですが、調べてみると、最初から「富士山」と表記されていたわけではありませんでした。というのも、初出と思われる『常陸国風土記』には、「駿河の国福慈」あるいは「福慈の岳は、常に雪降りて登臨(のぼ)ることを得ず」と表記されていたからです。この「福慈(の岳)」が「富士山」の古名だとされています。
また『日本書紀』皇極天皇三年(六四五年)には、「秋七月。東國不盡河邊」とありここでは「不盡」と表記されています。それは『万葉集』でも同様でした。『万葉集』に富士山を詠んだ歌は十首ほどありますが、その中に「富士」という表記は認められず、原則「不尽山」とあるか、「布士」「布自」「布仕」「布時」のような万葉仮名表記になっています。それにもかかわらず小学館の新編全集などは、底本の「不尽」をそのまま表記せず、わかりやすくて馴染みのある「富士」に校訂しているので、読者はもともと原文でも「富士」と表記されていたと勘違いさせられているのではないでしょうか。
たとえば、もっとも有名な『万葉集』の山部赤人の歌にしても、
田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける(318番)
と表記されているのに、ほとんどの活字本は勝手に「富士」に校訂しています。それは高校の古文の教科書も同じでした。本当にそれでいいのでしょうか。むしろ本来の「不尽」を尊重すべきではないのでしょうか。
ではいよいよ核心に迫りましょう。「富士」という表記の初出は一体いつなのかです。今のところ歴史書の記述としては、『続日本紀』天応元年(781年)秋七月六日条に、「駿河國言,富士山下雨灰, 灰之所及木葉彫萎」とあります。これが「富士山」という表記と噴火の最初の記事とされています。
文学で最初に「富士」に触れているのは『竹取物語』でした。『竹取物語』には末尾部分に、不死の薬を「駿河の国にあなる山の頂」(77頁)で焼いたとあります。そこからは「不死山」という語源説が想定されますね。ただしその後に、
士どもあまた具して山へのぼりけるよりなむ、そのやまを「ふじの山」とは名づけける。その煙、いまだ雲のなかへ立ちのぼるとぞ、いひ伝へたる。(77頁)
とあって「不死」を採用せず、最終的に「士に富む」すなわち「富士」説を採用しています。どうやらこれが古典文学における「富士」の出発点のようです。というか古典文学では「不尽」が採用されず、何故か「富士」が好まれたことになります。
なお不死の薬を焼いた煙が今も立ち上っているというのは、「富士山」の噴火を暗示しているのでしょう。そのことは『古今集』の仮名序にも、「富士の煙によそへて人を恋ひ」(23頁)・「今は富士の山も煙も立たずなり」(24頁)とあって、『古今集』が成立した905年頃には噴火が収まっていたようです。
この後、何事もなかったかのように「富士山」表記が流布し、普通に用いられるようになりました。『古今集』には早速、
人知れぬ思ひをつねにするがなる富士の山こそわが身なりけり(534番)
と「思ひ」に煙の「火」を掛けた歌が掲載されています。『古今集』だけでなく、『伊勢物語』以下『大和物語』『平中物語』『蜻蛉日記』『うつほ物語』『住吉物語』『源氏物語』『更級日記』『夜の寝覚』『狭衣物語』『堤中納言物語』『今昔物語集』『十六夜日記』など、実に多くの作品に「富士山」が引用されています(もちろん「富士」に校訂されているものもあります)。
それらの多くは、和歌に詠まれているものなので、必ずしも直接「富士山」を見なくても、イメージ(歌枕)で読むことができます。その第一は赤人歌の継承(引用)で、平安時代においても、雪をかぶった白い「富士山」を詠むことがパターン化しています。そして第二に「富士山」が活火山であり、しばしば噴煙をあげていたことから、「富士の煙」が詠まれています。特に噴火の「火」を「思ひ」の「ひ」と掛詞にすることで、恋の歌(燃ゆる思ひ)に多用されています。都に住む貴族にとって、遠い地にある「富士山」の噴火は、対岸の火事でしかなかったからでしょう。という以上に掛詞の技巧に適したものとして、和歌に詠まれたのです。
23数字の音読み・訓読みをめぐって(日本語6) 2025.6.24
日本語の場合、数字の読みとしては音で「いち、に、さん、し、ご、ろく、しち…」と読む読み方と、訓で「ひい、ふう、みい、よ、いつ、むう、なな…」と読む読み方があります(別に一つ・二つもあります)。これだけ見ると、平然と使い分けられているように思えますが、実はこの中に別の読みを持っている数字が含まれています。それは「四」と「七」です。
「四」は音の「し」が聞き取りにくいのか、「よん」と読んでいるケースが少なくありません。しかも「四」には「よ・よつ・よん」と三種類の読みがあるので、日本語教育では教えるのに苦労しているかもしれません。「七」の「しち」にしても、聞き取りやすい「なな」で代用されることがよくあります。京都の地名「一条(いちじょう)」「四条(しじょう)」「七条(しちじょう)」は特に聞き間違いが多いことで有名です。いずれにしても、微妙に音と訓が入り混じっていることには留意してください。
これらの数字にさらに助数詞が付きます。日本語には実に多くの助数詞があって(五百ほど)、日本人でもうまく使い分けられていません。発音の変化でよく例に出されるのが「本」です。数字に「本」を付け、「いっぽん、にほん、さんぼん」と数えると、数字によって「本」が「ぽん、ほん、ぼん」と三種類に変化するからやっかいです。日本人だったら当たり前かもしれませんが、外国人にはどうして半濁音や濁音になるのかきちんと説明しなければ納得してもらえません。でもなかなか合理的に説明できないのです。
これに関して日本語では、促音便「っ」の場合は「ぽん」になり、撥音便「ん」の場合は「ぼん」になると習います。「いち」は促音便化するので「いっぽん」、「さん」は撥音便化するので「さんぼん」というわけです。これなら合理的ですね。ところが次の「四」で躓きます。もともと「し」と読めば「しほん」で何の問題もありません。それを「よん」と読むことで、「さん」と同様に「よんぼん」と類推されます。しかしすぐにこれは「よんほん」ですと駄目出しされてしまいます。この場合、音便化の法則でどう切り抜けるのでしょうか。仮に「よん」は訓読みだから「ぼん」にならないと説明されたら、それで納得できるでしょうか。もとの「しほん」を引きずっているようにも思えます。
「七」の場合、「しち」でも「なな」でも読みは「ほん」です。むしろ「八」は「はち」と読むと「ほん」だし「はっ」と読むと「ぽん」になります。ついでに「九」には「く」(呉音)と「きゅう」(漢音)という二つの読みがあります(九条は「くじょう」です)。時間の「分」も「いっぷん、にふん」まではいいのですが、「三分」は「さんぶん」ではなく「さんぷん」になります。「四分」も「よんふん」よりも「よんぷん」が一般的です。「本」の場合とは明らかに法則が違っています。ここまできてどうやら、ハ行の助数詞が曲者だということが見えてきました。こういった規則性の乱れに、合理的科学的な説明はつけられそうもありません(慣用?)。
また数字に「人」がつくと奇妙な変化が生じます。「一人」(ひとり)、「二人」(ふたり)まではいいのですが、「三人」になったとたんに「さんにん、よにん」と「にん」に変ってしまうからです。これも訓と音のせめぎあいによるのでしょうか。似たような例として「日」もあげられます。「日」という助数詞を当てると、「一日」が「いちにち」ではなく「ひとひ」でもなく「ついたち」となります。これは数字よりも「月立ち」という旧暦の名残が優先しているからでしょう。この場合、必ずしも「日」を「たち」と読んでいるわけではありません。あくまで熟語としての読みです。それが「二日」になると普通に「ふつか」になります。「三日」は「みっか」、「四日」は「よっか」ですから、「日」は数字の訓読みと結合して「か」と読んでいることがわかります。しかしそれも十日まで。十一日以降は「じゅういちにち」と音読みに転換しています。ただし十四日と二十日だけは「じゅうよっか」「はつか」です。これも外国人には理解しにくい(説明しにくい)のではないでしょうか。
日本語の数字の読みの複雑さ、おわかりいただけましたか。特に「四」と「七」に問題があること、それから助数詞との組み合わせによって奇妙な変化が生じること、そこには訓と音の使い分けだけでなく、古い言い方と新しい言い方とのせめぎあいも含まれているようです。
最後に私の話をします。私は長崎生まれですが、「七」を「しち」ではなく「ひち」と発音していました。「質屋」も「しちや」ではなく「ひちや」です。「しつこい」は「ひつこい」だし、「七輪」は「ひちりん」、「七面鳥」は「七面鳥」になります。長崎だけでなく西日本には多いとのことです。では京都の「七条」はというと、古くは「ひちじょう」「ひっちょう」だったようですが、京都市バスではあえて「ななじょう」といっています。
22藤村と「林檎」(近代6) 2025.6.17
島崎藤村の有名な詩集『若菜集』の中に、「初恋」というちょっと官能的な詩があります。まだ上げ初めし前髪の、林檎のもとに見えし時、前にさしたる花ぐしの、花ある君と思ひけり。やさしく白き手をのべて、林檎を我に与へしは、薄紅の秋の実に、人恋初めし始めなり。
少年時代にいっぱしのロマンチストを気取っていた私は、当然のようにこの詩を暗唱し、しばしば口ずさんでいました。もっともその頃は、一語一語正確に理解するというよりも、ただ詩としての言葉の美しさ・甘さに感動していただけでした。そのためいかに自分が無知であったか、内容を誤解していたかということが後になってわかってきました。
髪を上げ初めたというのは、もちろん少女から大人への成長・変身を意味します。古典に造詣の深い人なら、「裳着・髪上げ」として『竹取物語』や『伊勢物語』二三段、つまり筒井筒の段を思い浮かべるでしょう。あるいは樋口一葉の『たけくらべ』でもかまいません。特に『たけくらべ』は、藤村の詩が成立する直前に発表されたものですから、ヒロインの美登利が島田を結った場面や、「まだ結ひこめぬ前髪の毛の濡れて見ゆる」といった表現が、藤村の詩に引用されている可能性は十分あります。
もちろん藤村自身の実体験も反映されているようです。馬籠(当時長野県、現在岐阜県)時代の隣家に住んでいた、大脇ゆうという娘さんがモデルと考えられています。『微風』所収の『幼き日』という短篇には、「桑畑の間にある林檎の樹の下」(藤村全集五388頁)とあり、「初恋」の詩の状況とピッタリ一致しています。ただしその時、藤村はわずか八歳でしたから、随分早熟だったことになります。
それ以上に誤解されているのが林檎の産地です。私などずっと長野県の小諸か馬籠あたりの林檎とばかり思っていて、それ以上深く穿鑿したことはありませんでした。最初はこの詩を、日本の身近な田園風景を歌ったものと誤解し、いつか信州の林檎畑に行ってみたいなという夢を描いていました。
しかし林檎というものは、決して日本原産ではなかったのです。もともと漢語ですから、中国原産の果実でした。日本のものは俗に「和林檎」と称されているものです。それが明治になってアメリカ産のおいしい「西洋林檎」の苗が植えられてから、東北・北海道を中心に栽培が始まって、現在に至っています。ですから当時林檎といったら、むしろ西洋的な舶来品というイメージが漂っていたことになります。
ところで藤村は、上京後、明治学院でカルヴィニズム派キリスト教の精神に触れ、洗礼を受けていました。このことを知った時、私の中の「初恋」の詩のイメージが一変してしまったのです。もうおわかりかと思います。この詩に歌われた林檎は、決して信州産の林檎などではなく、旧約聖書のアダムとイヴが食べた禁断の木の実としての林檎が投影されているのです。そうなるとここに歌われた林檎には、性のめざめや誘惑のイメージが付与されていることになります。
ただし原典たる旧約聖書の創世記には、林檎という言葉は一切見当たりません。この点も多くの人が誤解しているようです。アダムとイヴの話に、肝心の林檎はまったく出てこないのです。これを林檎に固定したのは、後に書かれたミルトンの『失楽園』でした。そこで林檎は「禁制の果実」となったのです。神が何故この実を食べてはいけないと言ったのかについては、これまでに様々な解釈がなされていますが、私は単純に「食べるなのタブー」として考えています。してはいけないというタブーは、厳守されるよりもむしろ破られることにこそ意味があるからです。これがいわば人間の弱さであり、原罪の第一歩なのかもしれません。いずれにせよ藤村の作品は、キリスト教との関わりが非常に深いということを忘れないでください。
21『更級日記』「はしるはしる」をめぐって(古典6) 2025.6.3
『更級日記』の「をばたまもの」章には、叔母から『源氏物語』五十余巻を櫃に入りながらプレゼントされた作者の喜びが表現されています。その中に「はしるはしるわづかに見つつ、心も得ず心もとなく思ふ源氏を」(新編全集298頁)という有名な一文があります。これは古文の教科書にもしばしば採用されているところなので、高校の授業で習った覚えがある人も多いはずです。
では、みなさんは「はしるはしる」(副詞)をどんな意味だと教わりましたか。小学館の新編全集の頭注を見ると、「とびとびにの意」と書かれていました。かつて高校生だった私も、確かこの意味で教わったように記憶しています。ところがそれに続いて、「他に、胸をわくわくさせ、帰途の車を走らせながら、などの解もある」と補足されていました。なんと「胸をわくわくさせ」や「車を走らせながら」という別解もあったのです。あえて三つの解が掲載されているということは、必ずしも意味が確定されていないからなのでしょう。
むしろ最近の教科書は、「胸をわくわくさせ」で解しているものが優勢のようです。現在の高校の教科書にどのように書かれているのか気になったので、第一学習社標準古典の指導書を参照してみました。するとやはり「胸をわくわくさせて」となっており、それに続いて「ここは「とびとびに」「大急ぎで」「車で走り走り」などとも訳されてきた」と別解にも言及されていました。ここで「大急ぎで」という解も出されています。
どうしてこんなに複数の解釈が存するのでしょうか。その理由の一つは、これを現在のこととみるか、それとも過去のこととみるかにありそうです。わかりやすくいうと、「走る走る」をそのまま「わづかに見つつ」につなげると、それは過去の読書体験になります。また「わづかに見つつ」を挿入句とすると、現在のことになります。
要するに構文のとらえ方によって時制が異なるので、それに伴って解釈が違ってくるというわけです。はたしてどちらが正しいのでしょうか。もちろんどちらかが正しくて、どちらかが間違っているのではありません。どちらも間違ってはいないので、別解が列記され、判断は読者に委ねられているのです。ややこしいですね。
繰り返しますが、「とびとびに」(とぎれとぎれに・部分的に)は過去の読書体験であり、「どきどきして」は『源氏物語』五十余巻を入手した現在の気持ち(胸の高まり)になります。これをよりリアルな表現と見ると、叔母の家から家へ帰る牛車の中で、一刻も早く自宅に戻って読みたいという作者の胸中をうまく描出していることになります。どの説も捨てがたいですね。
もう一つ別の考え方があります。高校ではほとんど触れられないようですが、「はしるはしる」という用例は、他の作品に見当たらない『更級日記』の孤例(独自表現)であることも、解釈を困難にしているということです。まして単独の「走る」に「とびとび」などという意味はありませんよね。
用例を探してみたところ、かろうじて中世の『筑波問答』に、「ただ某のことと御尋ねにつきて、はしるはしるも申さん」(16頁)とあって、ここでは「ざっと申しましょう」と現代語訳されていました。これを遡って『更級日記』に援用しているのかもしれません。もしそうなら、後世の作品を典拠にして『更級日記』を解釈していることになります。でも「ざっと」がどうして「とびとびに」になるのでしょうか。このことを知って、高校生は納得するのでしょうか。
一方「どきどきする」は、「胸走る」という言葉があることで、優勢になっているのかもしれません。そのため「日本国語大辞典第二版」は、『更級日記』の本文を引用して「胸をわくわくさせながら」の意味だけを載せ、「とびとびに」の意味は掲載していません。しかしながら「胸走る」は期待感とか喜びだけでなく、「胸騒ぎがする」意味もあり、必ずしもぴったりしているとはいえません。第一、『更級日記』の用例に「胸」はついていないのですから、いささか飛躍がありそうです。こうなると「胸がわくわくする」も「とびとびに」も、決め手に欠けていることになります。これでは試験問題として出せませんね。
いかがですか。こんな有名なそして単純な言葉でありながら、「はしるはしる」は比較できる他の用例が皆無(孤例)なので、解釈が確定できていないのです。では何故高校では、これが他に用例のない珍しい表現だとか、解釈が一つに絞れない言葉だとか、正直に教えてくれないのでしょうか。そもそも先生方は、こんなややこしい問題があることをどれだけご存じなのでしょうか。
20「しばかり」の意味わかりますか?(番外5) 2025.5.27
みなさん、昔話の「桃太郎」はご存じですよね。その「桃太郎」の冒頭は、
むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へせんたくにいきました。
となっています。この中に出てくる「しばかり」が、どうも今の若い人には通じないようです(死語?)。大学の授業で学生に意味を尋ねたところ、ほとんど「芝刈り」のことという答えが返ってきました。じゃあ、おじいさんは何のために山へ行ったのですか。なんのために芝を刈るのですか。まさかゴルフ場のアルバイトじゃないですよね。こんな笑い話のようなやり取りが、現在の大学の授業の現実なのです。おそらく学生の祖父母ならば、正解率はもっと高いでしょう。
この「しばかり」というのは「柴刈り」、つまり落ちている枯れ枝を拾い集めることです。現在では、どこの家庭にも電気やガスが備わっているので、昔のように小枝を燃料にすることはなくなりました。そのため「柴」という漢字が生活から乖離してしまい、代わって身近なゴルフ場やサッカー場などに植えられている「芝」の方が一般的になってしまったようです。
もちろん日本に「芝」が植えられたのは、そんなに古いことではありません。明治に至っても、しばらくはかまどで煮炊きしていました。どこの家庭でも、燃料としての柴や薪・炭が必需品だったのです。京都の大原女は柴売りでした。そのため町や村の周辺の雑木が、人々の生活のために消費されていたのです。二宮金次郎が背中に背負っているのも柴でした。
多少の枯れ枝を集めるくらいでは済みません。木は切り倒され、薪や炭の原料にされました。その頃の京都など、周囲の山々の雑木は絶好の燃料でした。だからこそお盆の大文字にしても、今よりずっと見晴らしがよかったのです。ところが電気やガスの供給が普及すると、もはや雑木を使わなくても済むようになりました。するとたちまち樹木が成長してしまい、そのため京都の大文字も昔に比べると見えにくくなってしまったとのことです。もはや「薪炭(しんたん)」も死語化してしまいました。
話を「柴刈り」に戻しましょう。最近の若い人は「柴」を知らないどころか、キャンプの飯盒炊飯も未経験ですよね。そのうちマッチが火をつける道具であることも忘れられてしまいそうです。それはさておき、おじいさんは何故山に柴刈りに行ったのでしょうか。そう考えると、かぐや姫(竹取物語)のおじいさんと共通していることに気づきます。
どうやらおじいさんは、農作物を生産するための田んぼや畑を所有していないようなのです。竹にしても柴にしても、村人なら誰でも手に入れることのできる共有物でした。竹の場合は細工を施して、籠などを編むことで商品として売れます。これは笠地蔵のおじいさんとも共通します。それに対して柴は、もちろん自前の燃料でもあるのでしょうが、それでは生活費が稼げないので、おじいさんは柴を束ねて大原女のように売りさばいていたのではないでしょうか。
よくよく考えると、昔話のおじいさんおばあさんは、ほとんどそういった設定になっていますよね。しかもその多くは、外に出ているおじいさんが何かを見つけてくるのですが、桃太郎の場合はちょっと特殊で、川へ洗濯にいったおばあさんが、川上から流れてくる大きな桃を発見します(向こうから近づいてきます)。
川上(神の領域)から流れてくるということでは、「花咲かじいさん」も共通しています。こちらは白(ポチ)という子犬が川上から流れてきます。中には流れてきた桃が犬に変身する話もあるので、両話はかなり近いといえます(犬の登場も共通しています)。
なお桃太郎には地域によっていくつかのパターンがあります。すんなりおばあさんが桃を手にするものが多いのですが、中には川幅が広くて手が届かないという設定になっているものもあります。その場合、たとえば「うちの桃ならこっちこい、よその桃ならあっちいけ」と桃に呼びかけたところ、桃がおばあさんのところにすっと寄ってきたという話もあります。またおばあさんが「あっちの水は辛いぞ、こっちの水は甘いぞ」と歌いかけて、桃をこちらに引き寄せるパターンもあります。ただしこれだと「ほたるこい」という歌のパクリなので、さほど古いものではなさそうです。
日本の昔話にはこういったネタが豊富に含まれているので、是非読み直してみてください。きっと新たな発見がありますよ。
19「お」を付けると意味が変わる言葉(日本語5) 2025.5.22
日本語の接頭語「お」や「ご」は普通「敬語」(尊敬・丁寧)として扱われていますが、どうもその説明だけでは済みそうもありません。もちろん、もともとは「御」という漢字の訓読なので、敬語であることは否定できませんが、それだけでは説明できない例があるからです。
例えば「にぎり」と「おにぎり」はどうでしょうか。本来は「握り飯」を女房詞で「お握り」と称したのでしょうが、現在では「にぎり」が寿司の意味に限定されてしまったことで、「にぎり」と「おにぎり」では質というか値段にも大きな差が生じています(糸井通浩氏『谷間の想像力』参照)。奇妙なことですが、敬語のついた「おにぎり」の方が安価なのはいうまでもありません。もはや敬語の本質は消失していることになります。もっとも最近は高価な「おにぎり」もあるようですが。
こういった面白い例は、探せば他にもあります。糸井氏は他に「ふくろ」と「おふくろ」、「ひや」と「おひや」、「しゃれ」と「おしゃれ」、「はこ」と「おはこ」、「めでたい」と「おめでたい」などもあげておられます。確かに「袋」に「お」を付けると、「袋」の丁寧語ではなく、母親の意味(おふくろ)に変容してしまいます。もっとも母親は、胎内に子袋を持っていることから、そう称するようになったという語源説明もできなくはありません。また「しゃれ」(洒落)というのは、本来垢抜けていたり気が利いていることを指す言葉でした。それが「おしゃれ」になると、服装や髪型などといった目に見えるものに限定的に使われるようになったことから、いつしか意味・用法の違いが生じたようです。
これに近いものとして、「めだま」と「おめだま」もあげられます。もとは同じなのでしょうが、「おめだま(を食う)」となると目上の人から叱られる意味になります。「めがね」と「おめがね」にしても、「おめがね(に叶う)」は目上の人に気に入られる意味が派生しています。「やつ」と「おやつ」は時刻(八つ時=午後三時)を表わす言葉ですが、その時刻に間食したことから、「おやつ」はお菓子を食べる意味になっています。「なら(奈良)」と「おなら」も随分違いますね。これなど、「お」を付けることで下品になるのを防いでいるのかもしれません。これらにはかろうじて敬語の名残があるともいえます。
次の「はこ」は箱のことですが、「おはこ」というのはいわゆる十八番で、その人の最も得意な芸のことをいいます。これも随分大きな違いですね。同様に「めでたい」にしても普通に使う言葉ですが、「おめでたい」となると皮肉交じりの表現というか、相手を馬鹿にしたように聞こえることもあるので、使い方には気をつけた方がよさそうです。この場合の「お」は必ずしも敬語ではなさそうです。
言語遊戯的に考えると、「野次」に「お」を付けると「親父」(おやじ)に変化します。また「倒産」に「お」を付けても、「お父さん」というまったく別の意味になります。「鳥」に「お」を付けると「囮」(おとり)に、「数」に「お」を付けると「おかず」に、「着物」に「お」を付けるとたちまち「置物」に変ります。これは日本語固有の特徴でしょうか。また「ひや」は水以外に酒にも汗にも使いますが、特に「冷や水」のことを「おひや」というようになると、「ひや」の方は「冷や酒」に限定使用されるようになります。これも「お」のない方が高価ですね。
なお落語などでは、「とこ」と「おとこ」の違いがネタにされていました。「とこをとる」とは蒲団を敷くことですが、旅館で外国の女性客に対して「おとこをとりましょうか」といったところ、「とこ」の丁寧な言い方とは受け止められず、「男を取る」と勘違いして「結構です」(ノーサンキュー)と答えたという笑い話があります。「お」があるかないかでこんなに意味が変わるのです。くれぐれも慎重に誤解のないように使ってくださいね。
18芥川「蜘蛛の糸」の典拠(近代5) 2025.5.13
みなさんの中に、蜘蛛を昆虫だと思っている人はいませんか。でも足の本数が違いますよね。普通、昆虫の足は六本ですが、蜘蛛は八本ですから、実は節足動物の仲間なのです。さすがに昔の人はちゃんと足の数に目を付けていたようで、『伊勢物語』九段では、
そこを八橋といひけるは、水ゆく川の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。
と「蜘蛛手(八本)」の例が出ています。夏目漱石の『倫敦塔』にも「この広い倫敦を蜘蛛手十字に往来する汽車も馬車も電気鉄道も鋼条鉄道も」云々とあります。
面白いことに、古代の人は蜘蛛のことを、同じく八本足の蟹と同類と見たらしく、「ささ蟹」とも称していました。この場合の「ささ」は「笹」でも「細」でもなく、「泥」蟹の意味とされています。そこから謡曲の「土蜘蛛」へとつながるわけです。見た目も決して美しくない「蜘蛛」ですが、和歌には『日本書紀』から詠まれています。その同じ歌が『古今集』墨滅歌にも、
我が背子が来べき宵なりささがにの蜘蛛の振る舞ひかねてしるしも(1110番)
と出ていました。この場合の「ささがにの」は「蜘蛛」にかかる枕詞になっています。この歌には、「衣通姫のひとりゐて帝をこひ奉りて」という詞書が付いています。衣通姫は愛する允恭天皇のお越しを、夕方の蜘蛛の巣作りによって察知(期待)したわけです。これは蜘蛛の巣作りは待ち人が来る前兆とする中国由来の俗信から生じたものです。ただし和歌における用例を見ると、必ずしも待ち人が訪れるのではなく、逆に来ない男を待ち続けるパターンの方が多いようです。
また蜘蛛は、糸を出すことでも知られています。そして「蜘蛛の糸」といえば、芥川龍之介の短編が有名ですよね。その「蜘蛛の糸」には、日本の古典ではなく外国文学に出典があること、ご存じでしたか。『今昔物語集』だけではなかったのです。芥川の「蜘蛛の糸」は1918年に「赤い鳥」に発表されました。それ以前の成立ということで探すと、ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』(1880年)に収められている「一本の葱(ねぎ)」、ポール・ケーラス著『カルマ(因縁)』(1894年)にある「The Spider-web」、セルマ・ラーゲルレーヴ著『キリスト伝説集』(1905年)所収の「わが主とペトロ聖者」の三つが浮上します。
中でもアメリカの宗教学者であるポール・ケーラスが書いた『カルマ』は、鈴木大拙によって翻訳され、1989年に『因果の小車』というタイトルで出版されています。「The Spider-web」はそのまま「蜘蛛の糸」と訳されているし、登場人物のカンダタまで一致しているのですから、芥川が参考にしたのは鈴木大拙の『因果の小車』でよさそうです。もともと芥川は『今昔物語集』などの古典を素材にして、自らの小説に再構築(リライト)することが多かったのですから、「蜘蛛の糸」もそれに近いものだったわけです。芥川を考えるためには外国文学にまで目を光らせなければならないのです。一度読んでみてください。
なお「蜘蛛の子を散らすよう」ということわざがありますね。蜘蛛の子は、孵化した後も脱皮するまで卵嚢に留まります。それを「団居(まどい)」と呼んでいます。その後、子蜘蛛たちは分散するわけですが、空中に長く糸を出して、風に乗って遠くまで飛んでいきます。それをバルーニングと称するそうです。東北地方に見られる秋の雪迎えや春の雪送りも、この飛行蜘蛛の糸が正体でした。そのことはなんとシェークスピアの「ロミオとジュリエット」や「リア王」にもゴッサマー(飛行蜘蛛)として出てきます。文学と蜘蛛には、かくも深い関わりがあったのです。
17「春はあけぼの」は平安朝の美意識ではなかった!(古典5) 2025.4.29
『枕草子』と言えば、冒頭の「春はあけぼの」章段が一番有名ですね。中学校の国語や高校古文の教科書にも必ずといっていいほど採用されており、『枕草子』の代表的章段といっても過言ではありません。そのため、そこには伝統的な日本の四季折々の自然美や風物が鏤(ちりば)められていると思っている人が案外多いようです。みなさんはいかがですか。
しかしながらそれは明らかに誤解でした。本来、春の風物としては「梅・鶯・桜・霞」などがあげられてしかるべきだからです。そこに「あけぼの」が含まれる余地は一切ありません。それにもかかわらず現代人、例えば初めて古典の授業で『枕草子』を習う生徒は、これをすんなり平安時代の美意識と思ってそのまま受け入れてはいないでしょうか。しかしながら当時の人々は、「春はあけぼの」という文章を耳にしたとたん、少なからず違和感を抱いたに違いないのです。
考えてみて下さい。仮に「あけぼの」が春の景物として既に認められていたとしたら、清少納言は当たり前のことを提示したことになります。それでは宮廷で評価・称讃されるはずはありませんよね。要するに『枕草子』は、決して当時の伝統的な美意識を集成した「平安朝美意識辞典」などではなかったのです。むしろそうではないから、言い換えれば当時の美意識とは異なっていたからこそ、人々の驚きと注目を浴びることができたのです。
あらためて『枕草子』初段の構成を見ると、「春はあけぼの・夏は夜・秋は夕暮れ・冬はつとめて」と、一日の中で推移する特定の時間帯(特に夜)が切り取られ、それが四季と組み合わせられていることに気付きます(ここから「春のあけぼの」と「秋の夕暮れ」という対句も誕生しました)。要するに「春はあけぼの」は、清少納言自身が新たに発見・提起した、ダイナミックな春の時間帯なのです。それが男女の「後朝の別れ」の時刻であることも重要でしょう。
そもそも「あけぼの」という言葉自体、上代(『万葉集』など)には用例がなく、平安時代においても古い『竹取物語』・『伊勢物語』・『古今集』には見られません。『うつほ物語』『蜻蛉(かげろう)日記』に至って、ようやく登場している比較的珍しい言葉です。『枕草子』にしても、冒頭の一例しか用いられておらず、当時としては非常にマイナーな言葉であったことがわかります(女性語かもしれません)。
類義語の「あさぼらけ」なら、既に『古今集』・『後撰集』に用例があります。それに対して「あけぼの」は歌語としての古い用例がなく、初めて勅撰集に登場するのは遅れて『後拾遺集』であり、それが流行するのは『新古今集』まで待たなければなりませんでした。個人としては和泉式部の歌が嚆矢のようです(やはり女性)。その「あけぼの」にいち早く反応したのが『源氏物語』であり、用例数はなんと十四例も認められます。しかもそのうちの三例(一例は和歌)は「春のあけぼの」ですから、『枕草子』を意識していると見て間違いなさそうです。
中でも光源氏の長男である夕霧が、野分(暴風)のどさくさに紛れて義理の母である紫の上を垣間見た印象を、「春の曙の霞の間より、おもしろき樺(かば)桜の咲き乱れたるを見る心地す」(野分巻)と述べているところは圧巻です。ただしこの文章はきわめて比喩的であり、しかも秋の夕暮に春のあけぼのを引き合いに出しているのですから、春と秋を対比させていることはわかりますが、薄暗い垣間見における紫の上の具体的な美しさはほとんど伝わってこない憾(うら)みがあります。
いずれにしても清少納言が、当時の伝統的な美意識とは異なる捉(とら)え方を提示したからこそ、周囲の人々の驚きに満ちた称讃を勝ち取ったのです。その代表例が「春はあけぼの」だとすると、最初にこの一文にふれた現代人は、素直にそのまま受け入れるのではなく、むしろ「どうして?本当?」という驚きや疑問を抱いてください。そこから古典の世界が開かれてくるのです。
16「ローマ字」表記について(番外4) 2025.4.22
最近、ローマ字の見直しが話題になっています。せっかくなので、ローマ字について少しだけ勉強しておきましょう。もちろんみなさんはローマ字書けますよね。これは漢字・かなに続く第三の日本語表記ともいえます(漢字では「羅馬字」)。特に国際化が進んだことで、パスポートを含めてローマ字表記を求められることが増加してきました。
かつてローマ字を覚えたての幼い私は、英語との違いなどわからず、ローマ字で書けば外国人にも意味が通じると本気で信じていました。それが心に残っていたためか、若い頃はどうして日本人がローマ字で自分の名前を書かなければならないのだ、とやや批判的でした。しかし外国人にしてみれば、人名や地名の発音が一目でわかる非常に便利な表記だったのです。どうやらローマ字というのは、日本人が必要だったというより、西欧との関わりの中で、西洋人のために生み出されたものだったようです。
そもそも私たちが使用しているのは英語のアルファベットなのに、何故ローマ字と称するのでしょうか。それは日本語なのに漢字と称していることと無縁ではありません。ローマ字というのは、古代ローマ帝国で用いられていたラテン文字のことです。英語はそのラテン語から派生しているので、そのままアルファベットを使用しています。なおアルファベットの語源は、ギリシャ語のα(アルファ)・β(ベーター)です。
日本で最初にローマ字が使用されたのは、古く室町時代のことでした。例によって交易を求めて、ポルトガル人がはるばる日本にやってきました。それに便乗して、イエズス会の宣教師達が布教のために日本にやってきました。彼らは日本語を習得する手段として、日本語をローマ字で書き取ったのです。日本人も英語に読み方をカタカナで振ったりしますよね。その教科書として活版印刷機で刷られたのが、ポルトガル式ローマ字で書かれた『天草版伊曽保物語』(イソップ物語・1593年)であり、『日葡辞書』(1603年)だったのです。これは今となっては、当時の日本語の発音を知る上で非常に貴重な資料とされています。
しかしながらその後、日本はキリシタンを禁止し、長く鎖国政策を取りました。そのためローマ字は途絶えてしまいました。長い鎖国期間を経て、江戸時代末期になると、再び西欧諸国との交易が行われます。そこで登場したのが、いわゆるヘボン式ローマ字でした。アメリカ人宣教師であるヘボン(「ヘップバーン」です)は、漢字とかなで表記された日本語の習得がやっかいなので、簡単に書ける英語風ローマ字表記を推奨しました。それは安政五年(1867年)のことです。これこそ外国人のための日本語表記だったのです。
それに対して日本人の手で、日本人に都合のいいローマ字も明治18年に考案されました。それが田中館(たなかだて)愛橘(あいきつ)の日本式ローマ字です。それが改良されて、昭和12年には訓令式ローマ字が法律で定められました。両者の違いは「し」を「si」と書くのが日本式で、「shi」と書くのがヘボン式です。「ち・つ」は「ti・tu」「chi・tsu」となり、「しゃ・ちゃ」は「sya・tya」「sha・cha」と異なります。富士を「huzi」と書くか「fuji」と書くか、トンボを「tonbo」と書くか「tombo」と書くかはどうでしょう。学校では日本式を学びましたが、なんとパスポートはヘボン式なので、今でも混乱が残っています。一番の問題は、「大野」と「小野」の区別がないこと(長音無表記)でしょうか。
ところで日本式普及の背景には、漢字表記を廃止してローマ字表記にする方が世界に通用するという、いわゆる「ローマ字国字論」の論争がありました。また第二次世界大戦敗戦後、GHQに占領統治されていた時も、ローマ字表記に統一する案が出されたほどです。仮にそうなっていたら、日本は漢字文化圏から離れていたことでしょう。もちろん現在も漢字かな表記のままですが、ローマ字にはそういった歴史的背景や変遷があったことを忘れてはなりません。
平成に入ってからワープロやパソコンが急速に普及したことで、ローマ字入力の便利さを思い知らされました。ローマ字表記では、文章の意味を読み取るのに多少時間を要しますが、キーボードでの入力となると、かな入力より断然早いし便利だからです。ローマ字は日本語の一部なので、当分の間は用途に応じて使い分けるのが得策でしょう。さて学校教育もいずれ遠からずヘボン式に変更されるのでしょうか。
15「的を得る」と「汚名挽回」をめぐって(日本語4) 2025.4.15
日本語の慣用表現の中には、間違って使われていると思われているものが少なくありません。例えば「的を射る」と「的を得る」はいかがでしょうか。あなたはどちらが正しいと思いますか。もともとこの表現は弓に関わるものですから、武士階級の中で生まれたものと思われます。ですから使用範囲は狭かったはずです。それが庶民に広がったことで、誤用が生じたのかもしれません。
普通には「的を得る」は誤用とされているのですが、必ずしも誤用ではなく、そこに方言が紛れ込んでいる恐れもあります。というのも江戸時代の『尾張方言』という本に「的を得ず」とあるので、単純に誤用とは断言できそうもないのです。
歴史的には政権が京都から江戸に移ったことで、関東の言葉が主流になっていきました。さらにそこに東北方言などが流入することになります。かつて会津藩出身の新島八重について調べていた際、「い」と「え(ゑ)」の区別が曖昧であることに気付きました。それを当てはめると、「いる」と「える」はたちまち相通してしまいます。つまり本人は「射る」のつもりで「える」と発音したものが、相手には「得る」と伝わり、それがそのまま表記された可能性もあるのです。
他にも考えられることがあります。中国から伝来した「正鵠を得る」という表現と混同された可能性もあります。逆に「的を射る」が影響を与えて、「正鵠を射る」という誤用も生じています。あるいは「当を得る」との混同も考えられそうです。
実はこの「的を得る」表現を最初に誤用としたのは、『三省堂国語辞典』の第三版(1982年)だとされています。それが第七版(2013年)に至って誤用云々が削除され、改めて正しい使い方として掲載されました。三省堂は自らの誤りを訂正したのですから、これぞ「一日三度反省する」という三省堂の社名にふさわしい行いでしょう。ただしそれによって読者が振り回されたことも事実です。
それともう一つ、「汚名挽回」「汚名回復」という表現も三省堂絡みであげられます。みなさんの中には即座にそれは間違いで、「名誉挽回」「名誉回復」あるいは「汚名返上」が正しいと答える方がいらっしゃるかと思います。これについては1976年に出された土屋道雄著『死にかけた日本語』(英潮社)で指摘されており、それ以来誤用とされるようになったとのことです。
ところが用例を調べてみると、まず「不名誉挽回」が出てきます。同様に「汚名挽回」の使用例も少なくないことがわかりました。なんと吉川英治の『宮本武蔵』にも、「一時の汚名を将来の精進で挽回してくれ」と出ていました。これは「汚名」の状態に戻す(「汚名」を取り戻す)のではなく、「汚名」を受けたものをそれ以前の普通の状態に戻す、あるいは元の状態に戻す意味だったのです。類似した例に「疲労回復」や「劣勢挽回」があります。逆に「汚名返上」の古い使用例は探しても見当たりませんでした。もちろん「汚名を雪(そそ)ぐ」なら普通に使われていますが。
この「汚名挽回」については、2004年に出された北原保夫著『問題な日本語』(大修館書店)で、誤用ではないという反論が示されました。そんなこんなで『三省堂国語辞典第七版』では、「汚名挽回」を誤用ではないとあえて訂正・明記しています。もちろん辞書が訂正したからといって、それで正しさが証明されたわけではありません。すぐに便乗するのではなく、あらためて用例を調査したり、徹底的に議論した上でないと決められないからです。それにしても三省堂の辞書の影響力は大きいですね。
14 芥川『羅生門』の基礎知識(近代4) 2025.4.8
平安末期に成立した『今昔物語集』という大部な説話文学があること、知っていますよね。残念なことに作者も編者もわかっていません。漢文で筆録されているために、簡単には読めない作品でした。ところが文学史的に見ると、例えば『伊勢物語』や『大和物語』と同話が掲載されており、部分的な比較資料として重宝されています。
また中世に成立した『宇治拾遺物語』と重なる話も多く、これも両作品の比較資料として有益です。『今昔物語集』の魅力はそれだけではありません。時代を越えて近代文学の創作にまで使われています。代表的な作家だけでも、武者小路実篤・堀辰雄・菊池寛・海音寺潮五郎・新田次郎・杉本苑子・田辺聖子・福永武彦などがあげられます。
その代表者が芥川龍之介でした。もちろん芥川は、『道祖問答』・『地獄変』・『龍』などの作品は『宇治拾遺物語』を踏まえているし、『袈裟と盛遠』は『源平盛衰記』を典拠としています。しかしながら『青年と死』(大正3年)以降、『羅生門』・『鼻』・『芋粥』・『運』・『偸盗』・『往生絵巻』・『好色』・『藪の中』・『六の宮の姫宮』など多くの作品が、『今昔物語集』のリライトでした。いずれにしても古典を典拠とする手法が芥川の特徴だといえます。
その中で一番有名な作品が、四百字詰原稿用紙15枚程度の短編『羅生門』でしょう。ただしそれは単純な人気の結果ではありませんでした。『羅生門』がこれだけ有名になったのは、実は教科書に採用されたからだったのです。初めて教科書に教材として掲載されたのは、昭和32年のことでした。その年、明治書院『高等学校総合2』・数研出版『日本現代文学選』・有朋堂『国文現代編』の三種に同時に採用されています。同時期に採用されたものとして、夏目漱石の『こころ』と森鷗外の『舞姫』があります。戦後の高校教育にふさわしいものとして、この三作品が教科書という媒体を通して流通していったのです(近代文学の御三家)。
その後、多くの教科書に採用されたわけですが、中でも注目すべきは、平成15年の『国語総合』において、全教科書会社の教科書に『羅生門』が掲載されるという快挙が生じました。それ以降、日本の高校で学んだほぼすべての人は、『羅生門』を学習していることになります。これに勝る作品はほかにありません。
ところで古典文学が専門の私が、『羅生門』についていえることといえば、やはり古典の知識に基づくものになります。第一に『今昔物語』と『今昔物語集』の違いはわかりますか。実は私が高校生の時、文学史の本には『今昔物語』として出ていました。それがいつのまにか「集」が加えられたのです。というのもこの作品は一つの物語ではなく、「今は昔」で始まる独立した説話が集められているからです。内容にマッチするように「物語」から「集」に変更されたのです。ですから年齢の高い人ほど『今昔物語』と称するわけです。
次に『羅生門』という書名ですが、ご存じのようにそんな名前の「門」は歴史上存在しません。肝心の『今昔物語集』には「羅城門」とありますから、「羅生門」は芥川の造語ということになります(「生」の強調)。では「羅城門」はどんな門かというと、平安京の朱雀大路の南端にある正式な門の名称です。「羅城」というのは城壁のことですが、平和な平安京は周囲を城壁で囲んではいなかったので、これは中国の都を模倣して築いたことによるのでしょう。
もう一つ、古典と現代の知識で意味が変容するものがあります。それは「きりぎりす」です。『羅生門』には「きりぎりす」が二度登場しています。
大きな円柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまっている。
丹塗(にぬり)の柱にとまっていた蟋蟀(きりぎりす)も、もうどこかへ行ってしまった。
ここでは「蟋蟀」を「きりぎりす」と読ませていますが、これは普通に「こおろぎ」と読むこともできます。「きりぎりす」と「こおろぎ」について、古典では現在の意味と古典では入れ替わっているといわれています。では『羅生門』ではどうでしょうか。「きりぎりす」か「こおろぎ」かを見分ける決め手は、鳴き声だけではありません。「きりぎりす」は夏の虫で「こおろぎ」は秋の虫だということ、もう一つ、「きりぎりす」は昼間に鳴いて「こおろぎ」は夜になくことです。
では『羅生門』はどうかというと、どうやら季節は秋でしかも時間帯は暮れ方以降ですね。そうなると現在の「きりぎりす」よりも古典としての「きりぎりす」の方がふさわしいことになりそうです。要するに「こおろぎ」の古名としての「きりぎりす」になります。これは芥川に限らないので、「きりぎりす」が登場する近代文学は見直してみる必要がありそうです。古典の知識も近代文学に多少は役に立ちそうです。
13 桐壺巻の「疑ひなき儲けの君」をめぐって(古典4) 2025.4.1
高校で物理の教師をしている長男から、突然電話がありました。勤めている高校の古文の試験問題に、「儲けの君」の意味を問う設問があり、「皇太子」が正解となっているが、それでいいのかというあまりにも唐突な質問でした。
もちろん問題文は、有名な『源氏物語』桐壺巻の一節です。光源氏誕生の後、弘徽殿腹の一の皇子(後の朱雀帝)のことを「疑ひなき儲けの君」と紹介している有名な箇所です。この部分は高校の古典の教科書にかなりの頻度で採用されているので、記憶されている人も多いかと思います。この「儲けの君」について、ほとんどの教科書は単に「皇太子」のことと注して済ませています。市販の古語辞典を見ても「皇太子」とあるのですから、決して出題及び解答が間違っているわけではありません。
ろくに『源氏物語』も読んだことのない畑違いの長男が、どうしてそんなことに引っかかったのかわかりませんが、実はここに看過できない問題が潜んでいることも事実でした。たとえ「儲けの君」=「皇太子」であっても、『源氏物語』の文脈として「皇太子」は明らかに誤りになるからです。何故ならば、一の皇子はその時まだ立太子していないからです。「坊がね」(皇太子候補者)であったにせよ、立太子していない一の皇子を「皇太子」とするわけにはいきませんよね。
というより、まだ立太子していないからこそ、帝に溺愛されている弟の光源氏の存在が不安材料になっているのです。本文に「坊にも、ようせずは、この皇子(光源氏)のゐたまふべきなめりと、一の皇子の女御(弘徽殿)は思し疑へり」とあるのが、何よりの証拠です。もちろん、親王宣下も受けていない更衣腹の光源氏が立太子することなど、歴史的にはありえないのですが。
そもそも「儲けの君」とは、「皇位継承予定者」という意味です。次の天皇になる予定の皇子ということで、必然的かつ具体的に「皇太子」とも訳されています。なるほど若菜上巻の「春宮かくておはしませば、いとかしこき末の世の儲けの君」云々という例は、確かに「春(東)宮」=「儲けの君」でした。しかしながら「儲けの君」は資格であって、「皇太子」という確固たる地位ではありません。つまり「皇太子」ではない「儲けの君」もありうるのです。だからこそ「疑ひなき儲けの君」(疑いもない世継ぎの君)という持って回った表現が用いられているのでしょう。そうなるとこれは、分割してはいけない(訳しにくい)表現ということになります。
仮に「儲けの君」だけを切り取って、「皇太子になる予定の人」と訳したら、それこそ大間違いになります。「儲けの君」はあくまで次の天皇になる予定の人であって、決して「皇太子」になる予定の人ではないからです。しかも後に明かされることですが、なんと桐壺帝には皇太子(六条御息所の夫)が決まっていました。
桐壺巻では触れられていませんが、後の賢木巻において六条御息所のことが、
十六にて故宮に参りたまひて、二十にて後れたてまつりたまふ。(新編全集93頁)
と記されています。また葵巻にも「故前坊」のことが語られています。現年立では、前坊の娘たる秋好中宮と源氏の年齢差は九歳なので、理論的に前坊は源氏九歳頃までは生存していたことになります。つまり下手をすると東宮が重複して存在していることになりかねません。それを合理的に説明するには、東宮は生存しているものの廃太子させられていたとでも読むしかありません。廃太子されることで、ようやく一の皇子の立太子が可能となるからです。
そういった描かれざる部分に、忌まわしい廃太子事件(政変)があったというか、この奇妙な表現の裏に潜んでいたと読めたら面白いですね。どうやら桐壺巻は、まだ立太子もしていない一の皇子を、あえて「疑ひなき儲けの君」と表現することで、表面的には光源氏との立太子争いを装いながら、水面下ではもっと複雑怪奇な廃太子事件が進行していたことを暗示していることになります。
そのからくり(背後に潜む事件)が、こういった特殊表現にこだわることで、かろうじてほの見えてくるのです。物語の特殊表現を深読みするのは、『源氏物語』を読む楽しみの一つでもあります。
12「サクラサク」について(番外3) 2025.3.27
一昔前(昭和五十年代)まで、大学の入学試験の合否を電報で知らせてもらうことが流行っていました。調べてみたところ、早稲田大学の学生サークルが昭和三十一年に合格電報を始めたそうです。その際、なるべく字数を少なくするために、合格の場合は「サクラサク」、不合格の場合は「サクラチル」という有名な例文が考案されました(ポケベルの走りみたいですね)。
それを真似て、全国の大学で独自の電文が考案されました。「エルムハマネク」は北海道大学、「アオバモユル」は東北大学、「オチャカオル」はお茶の水女子大学、「テンピョウノイラカカガヤク」は奈良教育大学、「イセエビタイリョウ」は三重大学、「クジラシオフク」は高知大学などなど、いろいろご当地物で工夫されています。一度徹底的に調べてみたら御白いですね。
その後、電報局が大学と提携して合否電報を受け付けましたが、その電文は単純な「オメデトウ」と「ザンネン」でした。どうやらこれは間違い(勘違い)を防ぐためのようです。「サクラサク」は、おそらく入学式が桜の開花シーズンと重なっていたことによるのでしょう。それもあって、たいていの学校には桜が植えられていました。さらには校章に桜の花をあしらっている学校も少なくありません。日本では明治以降、学校と桜は切っても切れない深い関係になっているようです。
ところで現在もっとも一般的な桜はソメイヨシノで、気象庁の桜前線の目安にも用いられています。ただしソメイヨシノの歴史は浅く、江戸後期に江戸駒込染井村の植木職人によって作り出された新品種でした。それが早く育つし早く開花するということで、瞬く間に広まったのです。
特に明治政府の政策で、江戸時代の面影を払拭させることを狙って、城跡や川の土手・堤に積極的に植えさせたことで、全国的な広がりを見せました。それは国内のみに留まらず、アメリカのポトマック河畔にも移植されています。これは初代大統領ジョージ・ワシントンの桜の木を切った逸話と関係しているのかもしれません。ただしソメイヨシノは早く育つ分、木の寿命が短くなり、早く枯れてしまうという欠点を有しているといわれています(条件さえよければ百年以上持っています)。日米友好のために植えられた桜が、六十周年を過ぎたころから枯れ始め、植え替えを余儀なくされてしまったのです。これが山桜であれば二百年以上、江戸彼岸桜であれば五百年以上は持つとされています。日米友好にどうしてそんな寿命の短い桜を贈ったのかと思わないでもありません。
さらに戦争によって、桜のイメージが変化させられているようです。受験での「サクラチル」は不合格(マイナス)の比喩でしたが、軍国主義では桜のような散り際の見事さが称讃されたからです。そのため靖国神社の桜は英霊の象徴ともみなされました。
一方、アメリカでは日本が真珠湾を攻撃して以降、ポトマック河畔の桜を切り倒そうという気運が高まっていました。面白いことに、それを阻止したのは韓国の李承晩初代大統領でした。李承晩は、ソメイヨシノは韓国の済州島の王桜が原木だと主張し、結果的にソメイヨシノを救ったのです。もちろん遺伝子検査の結果、両者が別種であることは既に確認されています。韓国の言い分は間違っていたのです。
もともとソメイヨシノは、人間の手によって大島桜と江戸彼岸桜を交配して作り出された、いわゆるクローンであり、種からは育てられないという特殊事情がありました。すべては挿し木・接ぎ木によって増やさざるをえないのですから、植木屋さんにとっては好都合(収入源)かもしれません。
さて、最近は異常気象が続いており、入学式に桜が咲いていないこともよくあるので、桜と入学式の関連もだいぶ薄らいできました。それ以上に問題なのは、四月入学という古くからの制度です。それは必ずしも国際ルールではなく、むしろ世界的には九月入学が一般的なようです。実は日本でも、明治初期には九月入学でした。ところが政府の予算編成が四月になったことで、学校の入学時期も四月に変更させられたのです。日本国内だけならそれで問題にはなりませんが、外国に留学したり、外国人留学生を受け入れようとすると、半年間待たなければならなくなります。それは未来ある若者にとって大きなロスでしょう。
そのずれを解消するため、九月入学・九月卒業が叫ばれつつありますが、いまだに主流にはなっていません。仮に大学だけを九月入学にすると、今度は日本の高校の卒業時期とずれてしまうからです。もし九月入学が本格化したら、「サクラサク」では季節外れになるので、新しい合格電報の例文を作らなければなりません。九月は菊のシーズンですから、スライドさせると「キクサク」になります。しかし四文字では語呂が悪いので、「キクカオル」あたりではどうでしょうか。
11 「夜ごはん」をめぐって(日本語3) 2025.3.18
平成5年に出版された『あさごはんひるごはんばんごはん』(今井祥智作)という絵本を知っていますか。三匹のかわいい猫たちが活躍するお話ですが、その名前が「あさごはん」「ひるごはん」「ばんごはん」だったのです。三匹目の猫は「ゆうごはん」「よるごはん」ではなく「ばんごはん」でした。
さてみなさん、「夜ごはん」という言葉を聞いたことありますよね。あるいは口にしたことがありますよね。特に外国人留学生と話していると、時々耳にしておやっと思うことがあります。また日本人でも、若い人は普通に使っているかもしれません。では「夜ごはん」は、日本語として間違っているのでしょうか、それとも許容される表現なのでしょうか。それについて考えてみましょう。
そもそもご飯は一日に三回食べるので(昔は二回)、その三回にそれぞれ名前が付けられています。三回の食事のうち、朝や昼は言い方が、
朝ごはん・朝食・朝めし・朝餉
昼ごはん・昼食・昼めし・昼餉
に固定していて、違和感を抱いたことはありません。なお「昼ごはん」だけは、単に「お昼」でも十分通用しています。
それに対して夜はというと、
夕ごはん・夕食・夕飯・夕餉
晩ごはん・晩食・晩飯・晩餉・晩餐
の二種類があります。「晩食」はあまり耳にしないかもしれませんが、夏目漱石の『門』に出ています。また「晩餉」ともいいます。ただしこの場合、「ばんげ」ではなく「ばんしょう」と読んでください。もっとも泉鏡花は、『遺稿』の中で「晩餉」を「ばんげ」と読ませています。なお永谷園のインスタントみそ汁は、「あさげ」「ひるげ」「ゆうげ」となっており、「ばんしょう」はありません。
もう一つ、晩には「晩餐」という大げさないい方もあります。これは逆に「朝餐」「昼餐」とはいわないようです。かろうじて昼には「午餐」といういい方があります。「午」は旧暦の時刻で、午前十一時から午後一時までのことです。それが現在でも正午(午の正刻)として残っています。
問題の「夜ごはん」は、かなり新しく言い出された表現のようです。そのため年配の人には、幼い言い方(幼児語)と受け取られているようです。その幼児語を留学生に教えるのはいかがなものでしょうか。似たような言い方に「夜食(やしょく)」がありますが、これは「晩ごはん」を食べた後に食べるものなので、意味が違っていますね。
ではどうして「夕」「晩」に「夜」が入り込んできたのでしょうか。少し過去に遡って考えてみましょう。かつての「夕ごはん」は、電灯が整備されていなかったこともあって、まだ明るいうちに食べていました。ですから明治までは「夕」が主流だったのです。ところが明治になってランプや電灯が家庭に普及したことで、暗くなってからでも食べられるようになりました。そのため「夕」よりも「晩」の方が時間的にふさわしいと思われたのか、「晩ごはん」が急浮上してきました。今では「晩ごはん」の方が一般的になっています。
「夜ごはん」はもっと新しくて、第二次世界大戦以降とされています。あるいは「夜のごはん」の「の」が取れたのかもしれません。面白いことに、高年層は「夕ごはん」、中年層は「晩ごはん」、若年層は「夜ごはん」と、年齢によって三層に分かれているという報告(統計)もあります。となると、いずれ「夕ごはん」は死語になるかもしれませんね。
「夜ごはん」は必ずしも間違ったいい方ではないのですが、それに対して違和感を抱く人たちが少なからずいることも間違いありません。その証拠に、つい少し前まで国語辞典の見出しにもありませんでした(日本国語大辞典にも出ていません)。最近ようやく取り入れられているようで、『デジタル大辞泉』には「比較的近年になってできた語とされる」とわざわざ説明されていました。あるいは「夕ごはん」と「晩ごはん」の中間的なイメージを有しているのかもしれません。
ということで、まだ完全には市民権を得ているわけではありませんが、定着するのは時間の問題でしょう。その証拠に、既に「夜(よる)飯」という言い方も「夜ごはん」の俗語として使われ始めています。これも時代の波でしょうね。
10「白熊のやうな犬」をめぐって(近代3) 2025.3.11
宮沢賢治は新しもの好きでした。ですから賢治の童話には、マザーグースなど外国文学の知識がふんだんに用いられています。童話とはいっても、当時の子供たちには到底理解できないようなことが多かったはずです。しかも、やさしいと思われている賢治の作品には、辞書に載っていない独自のオノマトペが山ほど使われています。意味を説明しようにも、調べても出てこない造語ですから、これは先生泣かせです。それもあって、賢治が生きていた頃には、作品はほとんど評価されていませんでした。賢治が高く評価されるようになったのは、むしろ近年に至ってからといった方がいいかもしれません。
ここでは『銀河鉄道の夜』と同じく有名な『注文の多い料理店』を題材にして、賢治の新しもの好きを見てみましょう。この『注文の多い料理店』は、賢治の生前に刊行された数少ない作品の一つですが、その広告チラシの中には、「少女アリスが辿った鏡の国」という文章があります。これはもちろん『鏡の国のアリス』のことですが、果たしてこの当時どれだけの人がアリスの話を知っていたでしょうか。また『注文の多い料理店』には、西洋レストランらしく「クリーム」(校本宮沢賢治全集十一33頁)・「サラド」(36頁)・「ナフキン」(同)といった片仮名の外来語が意図的に使われています。そういったものにしても、当時どれだけ一般的だったかわかりません。むしろ当時の読者は珍しい言葉に戸惑っていたのではないでしょうか。
ここではそういった横文字ではなく、「白熊のやうな犬」という一般的と思える表現に注目してみます。みなさんは「白熊のやうな犬」とあったら、一体どんな犬を思い浮かべますか。まず「白」とあるのだから、毛の白い犬でしょうね。もちろん「白」は、昔話「花咲爺さん」に登場している犬の「白」(ポチは近代的な名)とも通底しており、神の使いのような神聖な存在とも言えます。一方、「熊」は大きな・獰猛なというイメージですから、「白熊のやうな」とあれば白くて大きな犬が想像されます。それなら「白い熊のやうな」としてもよかったはずです。というより「白熊」と「白い熊」では意味が異なりそうです。
この犬は猟犬でしょうから、秋田犬がふさわしいかもしれません。もっと大きい犬となると外来種になります。そのことは犬が突然死んでしまった時、飼い主の二人が、「じつにぼくは、二千四百円の損害だ」「ぼくは二千八百円の損害だ」(校本十一巻28頁)と残念がっていることからも察せられます(ここに犬に対する愛情は感じられません)。
さて肝心の「白熊」ですが、今でこそ「白熊」は「ホッキョクグマ」の別称として一般にも知られています。京都・岡崎の動物園にも飼われているし、エアコンのテレビコマーシャルでも有名です。しかし『注文の多い料理店』が書かれた頃はどうだったのでしょうか。この作品は大正十年十一月十日に書かれ、二年後の大正十三年十二月に出版されています。その賢治が「白熊」を見られるとしたら、真っ先に上野動物園が思い浮かびます。彼が動物園を意識していたことは、『月夜のけだもの』という未完の作品の改訂原稿に、「わたくしはそのころ上野の動物園の看守をしてゐました」(校本十一巻469頁)とあることから察せられます。しかもその中に「白熊」も登場していました。
幸い『上野動物園百年史』によれば、その当時、ドイツの動物商ハーゲンベックから購入した二頭のホッキョクグマがいたことがわかりました。これを賢治が上野の動物園で見た可能性は高いようです。しかし話はそれだけでは解決しません。やっかいなことに、当時もう一種、別の「白熊」が動物園にいたからです。それはニホンツキノワグマなのですが、ただのツキノワグマではなくアルビノでした。明治三十二年に新潟県から白いツキノワグマが贈られ、それがなんと昭和七年まで三十三年間も飼育されていたのです。
こういったことを踏まえた上で、当時の人は「白熊のやうな犬」という表現から、どのようなイメージを思い描いていたのでしょうか。『注文の多い料理店』が書かれた当時、上野動物園の白熊は既に有名だったのかもしれません。当然、上野動物園に行ったことのある人なら、そこに二種類の白熊がいることもわかっていたでしょう。それでも日本中の人々がホッキョクグマを普通に見知っていたとは思われません。つまり「白熊のやうな犬」という表現だけでは、到底読者に共通のイメージ(大きさ)を印象付けるのは不可能だったのです。たとえ上野動物園に馴染みのある人でも、どちらの「白熊」のことなのか判断できません。
結局、賢治が「白熊のやうな犬」に込めた意図は不明と言わざるをえません。これを含めて賢治の童話は、当時の人の知識や理解を超えたものが少なからず内包されており(時代を超えており)、だからこそ生前には受け入れられず、近年になってようやく再評価されるに至ったのです。いくら面白いからといって、賢治の作品を甘く見てはいけません。
9 桐壺巻の「いづれの御時にか」をめぐって(古典3) 2025.3.4
『源氏物語』桐壺巻の「いづれの御時にか」という冒頭部分は有名ですよね。だからといってここをあっさり読み飛ばしてはいけません。ここに作者(紫式部)の創意工夫が凝縮されていることを知ってほしいのです。
まず、「昔」や「今は昔」でないことに注目して下さい。従来の物語の伝統的な冒頭は「昔」あるいは「今は昔」であり、そして必ず文末に助動詞「けり」(伝承過去)が用いられていました。例えば『竹取物語』は「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり」ですし、『伊勢物語』も「昔、男、うひかうぶりして、奈良の京春日の里にしるよしして、狩にいにけり」でしたね。『うつほ物語』も「むかし、藤原の君ときこゆる一世の源氏おはしましけり」です。これらはみな物語の冒頭形式を踏襲しているのです(すべて男性作家の作品です)。
もちろんここに用いられている「昔」や「今は昔」は、決して限定された過去ではありません。ですから間違っても「それはいつごろ?」などと質問しないでください。むしろ時間と空間を越えて、日常から物語(非日常)の幻想世界へと誘う呪文、あるいは語り手と聞き手の暗黙の了解事項と思ってください。それを近代的に〈話型〉と定義してもかまいませんし、物語の約束事(古代性)と思ってもかまいません。これがきちんと守られているからこそ、読者はその語り出しを聞くことによって、安心して物語世界に入り込むことができたのです。
ところが『源氏物語』は、その伝統的なパターンを破って、いきなり「いづれの御時にか」と天皇の御代から語り出しました。おそらく当時の読者は、これを読んで(聞いて)大いに驚いたに違いありません。しかし現代の読者(みなさん)は、この冒頭表現を見ても驚きませんよね。特異な冒頭であることにすら気付いていませんよね。それでは最初から『源氏物語』の読者としてふさわしくないことになります(読者失格!)。それほどこの書き出しは斬新なのです。
それだけではありません。「いづれ」という疑問を含む設定によって、一種の〈謎解き〉の興味も付与されています。物語が展開される中で、これは光孝天皇の御代なのか醍醐天皇の御代なのか、それとも一条天皇をモデルにしているのかなど、さまざまに推理を働かせるからです。すぐに物語の主人公・光源氏を紹介せず、どの御代の天皇であるかを問いかけるのは、『源氏物語』が歴史性(天皇制)を重んじているからでもあります。
この特異な冒頭表現に関しては、白楽天の「長恨歌」冒頭の「漢皇色を重んじて傾国を思ふ」が踏まえられているといわれていますが、どうでしょうか。むしろこれが新しい試みであり、それによって後宮における秩序の乱れを意図的に語り出そうとしていることを認識してください。その上で、天皇の寵愛を一身に受ける桐壺更衣が紹介されます。もちろん後宮は秩序を重んじる社会です。というより、後宮というのは統治の象徴でした。後宮の女性達の背後には、政治に関与しうる実力を有する男性官僚達が存在しているからです。だから天皇はその女性達のバックを配慮しつつ、ヒエラルキーに応じて愛を分かち与え、彼女達を巧みに管理・操縦しなければならないのです。後宮は政治の場の延長・象徴でもあったのです。
それにもかかわらず、後見のいない身分低き更衣が天皇の寵愛を独占するというのでは、収まりがつきません。そのため更衣が天皇に愛されれば愛されるほど、後宮におけるいじめは激しさを増します。そして結果的に、天皇の寵愛がかえって更衣の寿命を縮めることになるのです(愛は殺人?)。『源氏物語』は、決して個人的な恋物語を描いてはいないことを理解してください。
これが従来のような「昔」始まりであれば、読者は語り手に対してただ相槌を打つだけでよかったのですが、『源氏物語』では最初から〈なぜ?〉という疑問を突きつけられることになります。それによって繰り返し読者の教養や人生経験が、物語の読みへ反映させられるのです。あなたならどう考えますか、この問いかけこそが『源氏物語』から読者へのメッセージなのです。そしてこの問いかけの答えを考えることが、『源氏物語』を読むことでもあります。もちろん唯一の正解などありません。答えは読者の習熟度(教養の差)によって変わるからです。
ただし物語とのキャッチボールは、原文でしかできません。現代語訳では一方通行(受け身)だからです。残念ながら、大河ドラマでも不可能でした。今まで現代語訳で満足していたあなた、それで『源氏物語』をちゃんと理解していると思っていたあなた、あなたは大きな勘違いをしています。それ以上に損をしています。是非原文を読んでください。
なお『源氏物語』に興味のある方は、とりあえず吉海直人著『源氏物語入門』(角川ソフィア文庫・令和3年刊)をお勧めします。騙されたと思って読んでみてください。
8 国歌「君が代」について(番外2) 2025.2.25
日本の国歌に制定されている「君が代」について、みなさんはどの程度のことをご存じですか。ここでその歴史を少しばかり辿ってみましょう。まず出典ですが、一番近いのは平安時代の『古今集』賀歌の巻頭にある、
我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで(三四三番)
です。これは「題知らず・読人知らず」の歌ですが、年賀に天皇の長寿を讃美・祝福したものと考えてよさそうです。なお初句は「我が君は」とあり、「君が代は」という本文異同は認められません。
この歌は、朗詠に適した祝賀の歌ということで、以後いろんな歌集に再録されています。その一つが藤原公任撰の『和漢朗詠集』でした。その鎌倉時代の写本に初めて「君が代は」という本文が登場しますが、主流は依然として「我が君は」でした。それが江戸時代になると、狭義的・主観的な「我が君は」より広義的・客観的な「君が代は」の方が使い勝手がよいということで、広く流布していきました。江戸時代において「我が君は」から「君が代は」へ変遷したことをまず押さえてください。
そして明治維新の後、日本に国際化の波が押し寄せてきました。そうなると対外的な外交儀礼の上で、どうしても国歌のようなものが必要になってきます。最初は薩摩(鹿児島)という小さな世界でのことでした。当時薩摩に来ていたイギリス歩兵隊の軍楽隊から、日本を代表するような曲はないのかと打診されたことがきっかけだったようです。それまで鎖国していた日本は国歌を持っていなかったし、持つ必要性も感じていませんでした。
そこで当時、薩摩の歩兵隊長を務めていた大山弥助(巌)は、自ら愛唱していた薩摩琵琶の「蓬莱山」という曲の一部である「君が代」を推薦しました。それは歌の中に自分の名前である「巌」が入っているからともいわれています。いずれにしても「君が代」が国歌となる道筋を付けたのは、この大山巌という個人だったのです。その歌詞にイギリス海軍の軍楽隊長フェントンが曲を付けたのが最初の「君が代」でした。それは明治三年のことです。しかし歌詞と曲がしっくりしていなかったので、改めて雅楽課に作曲の依頼がありました。もしこれがしっくりしていたら、外国人作曲の日本国歌になるところでした。
結局、雅楽課の奥好義が日本古来の旋律をもとにまとめたものを、上司の林広守が補作して曲として完成させ、明治十三年に演奏しています。これが現在の「君が代」の始まりとされているものです。そういった経緯があってか、「君が代」の作曲者を林広守としているものもあります。これに洋学の和声を付け楽団用に編曲したのは、ドイツ人のフランツ・エッケルトです。「君が代」は、国歌制作という意識が希薄な中で誕生したのでした。
以後、これを国歌として扱うことがしばしばありました。明治二十六年の文部省告示にも「国歌君が代」と書かれています。しかし正式に制定されないまま、オリンピックなどのスポーツ競技の優勝者を称える際、あるいは小中学校で式典が行われる際に「君が代」が歌われてきました。昭和二十年まではそれで何の問題もなかったのです。
ところが第二次世界大戦敗戦に、軍国主義・天皇制に対する反省があり、しかも新憲法で天皇が国の象徴と据え直されたことから、学校で「君が代」を斉唱することの是非が激しく議論されました。これは政治・思想教育に関わることですから、民主主義国家としては当然でしょう。日教組(日本教職員組合)の抗議運動は今も続いています。その際、「君が代」に代わる新たな国民国歌制定の運動もありました。最終的には国旗及び国歌に関する法律によって、「君が代」は日本の国歌と制定されたのです。なんとそれは遅れて平成十一年八月のことでした。その際、「君が代」は天皇のことではなく「我が国」のことだという新解釈も示されています。
こうしてその公布日である八月十三日が、「君が代」記念日になりました。「君が代」が行進曲に向かないのは、日本が革命によって独立した国ではないからです。むしろおごそかでゆったりしているところが、日本の国歌の最大の特徴ともいえます。なお古関裕而が作曲したオリンピックマーチの最後には、「苔のむすまで」のメロディが見事に取り入れられています。お気づきでしたか。
ついでながら「君が代」は、世界の国歌の中で一番古い歌詞です(千百年以上前)。また歌詞が三十一文字しかない(二番がない)ので、世界で最も短い国歌ともいわれています。内容も過去や現在のことではなく、未来永劫まで幸せが続くことを祝福しています。こんな国歌は他に見当たりません。
7 国語と日本語の違い(日本語2) 2025.2.18
みなさんは国語と日本語の違いがわかりますか。そもそも同志社女子大学日本語日本文学科は、旧来の国文学や国語国文学ではなく、国際社会を意識した日本語日本文学を学科名として選び取っています(同志社大学や京都女子大学は国文学科です)。その大きな柱は「日本語教育」、つまり外国人に日本語を教える教師の育成でした。
そこで最初にひっかかるのは、日本語教育と国語教育の違いです。国語教育というのは、日本国内の小中高で、日本語を母語とする子供たちに国語という科目を教えることです。そのためには国語の教員免許を取得しなければなりません。それに対して日本語教育は、日本語を母語としない外国人に効率よく日本語を教えることが主眼となっています。これには教員免許がない(いらない)代わりに、日本語教育能力検定試験に合格するか、あるいは日本語教師養成課程を習得する必要があります(最近ようやく国家資格になるようです)。
要するに同じく教師でも、小中高において日本語を母語とする日本人(ネイティブ)に教えるのか、日本語学校などで日本語を母国語としない外国人(ネイティブ以外)に教えるのかの違いがあります(含帰国子女)。簡単に言えば、英語教師のように外国語としての日本語を教えるわけです。これで少しは日本語と国語の違いがおわかりになりましたか。似たようなものに国史と日本史がありますが、こちらは早々と日本史に統一されています。
ついでながら、もう一つ大事なことがあります。国語や英語の教師は、自身が教わってきた授業の体験があります。それに対して日本語教育は、当然ながら自身の体験がない場合がほとんどです。日本語はしゃべれるので、日本語を正式に教わる必要がなかったからです。そこに日本語教師と外国人学習者との溝や摩擦のようなものが生じる要素が潜んでいるのでしょう。
改めて両者の違いを辞書的に説明すると、日本語というのは英語とか中国語というように、その国固有の言語のことです。それに対して国語は、各国の言葉がそれぞれその国の国語になります。イギリス人にとっては英語が国語というわけです。ですから日本では日本語が国語と重なることになります。ただしぴったり一致するわけではありません。普通に日本語と言えば、現在日常生活で使われている言葉(主に話し言葉)という意味合いが強いからです。
それに対して国語は、古い時代の言葉までカバー(網羅)しています。ですから日本語学といったら、古くても明治以降が対象となるのに対して、国語学といったら当然のように上代語まで含まれます。日本語の場合、『万葉集』や『源氏物語』にまで遡る必要はないのです。それもあって、国語ではいわゆる学校文法を教えますが、日本語ではもっと実用的な日本語教育文法になっています。い形容詞・な形容詞(形容動詞)などがその例です。
ですから、かつては書き言葉で書かれた近代文学など、日本語学の対象とはなっていませんでした。そのかわり、他の言語(外国語)との比較が積極的に行われました。もっとも最近では、青空文庫のような検索に便利なものがあるためか、話し言葉とは異質である小説の例なども、あたりまえのように論文に例文として引用されるようになっています。その妥当性はどこまで考慮されているのでしょうか。
ここで国語についての大事なポイントを押さえておきましょう。そもそも国語は、明治以降日本全体に通用する標準語のことを指していました。それについては是非井上ひさしの『国語元年』という作品をお読み下さい。江戸時代までの日本は全国の各藩がそれぞれ国を形成しており、その中で生活が完結していたため、強い方言がまかり通っていました。ところが明治になって藩がなくなり、日本が一つの国家となったことで、全国で通用する標準語が要請されたのです。その標準語の教育が現在の国語教育の原点というわけです。出発点における国語という言葉は、辞書的な意味とは違う使われ方をしていたのです。
それとは別に、法律用語としての日本語と国語は、今もってきちんと使い分けられていません。その証拠に「国語に通じない」(刑事訴訟法)と「日本語に通じない」(民事訴訟法)など統一されることなく使われていることがあげられます。なお文化庁では、国語課の下に日本語教育関連事業がぶら下がっています。
6 「タイタニック」と『銀河鉄道の夜』をめぐって(近代2) 2025.2.12
みなさんは「タイタニック」の映画(1997年)を御覧になりましたか。主演のレオナルド・ディカプリオを含めて、大変評判が良かったようですから、かなりの人が映画館で涙を流したのではないでしょうか。特に大型船が氷山と衝突して沈没しかけた時、船の専属楽団のメンバー達が最後まで演奏し続けるシーンは印象的でした。そしてもういよいよ沈没というクライマックスで、彼らは讃美歌を演奏します。それは有名な讃美歌でした。
話は変わりますが、みなさんは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をご存じですよね。これも非常に有名なので、小さい時に読んだという人が多いと思います。この作品は単なる童話・ファンタジーというより、さまざまな要素が混ぜ合わされている点に特徴があります。ですから、とても子供には理解できない内容といえます。
例えば『銀河鉄道の夜』には、「ツウィンクル、ツウィンクル、リトル、スター」という「きらきら星」の一節が出てきます。マザーグースに関しては、大正10年に北原白秋がはじめて日本語訳を出版しています。ただし白秋の本には「きらきら星」が掲載されていないので、賢治は原書から引用したのかもしれません。いずれにしても賢治は、当時ようやく日本語訳が出版されるくらいの目新しい舶来の知識を、早々と自分の作品に取り込んでいたのです。そんな中に、次のような文章がありました。
船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾き、もう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんや りありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗りきれないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せてくださいと叫びました。
これは、幼い姉弟を連れて途中から列車に乗り込んできた青年の身の上話の中の一節です。氷山にぶつかったとあるところで、すぐにタイタニック号のことを思い浮かべます。もっとも作品の中には「タイタニック」という言葉は使われていませんし、デ・アミーチスが書いた『クオレ』所収の「難破船」がモデルだともいわれています。しかしタイタニック事件は明治45年(大正元年)に起こっているので、時間的には全く齟齬しません。これが「推量」から「確信」に変わるのは、すぐ後の一節を見た時でした。
私は一生けん命で甲板の格子になったところをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく三〇六番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれを歌いました。
この三〇六番というのは、もちろん讃美歌の番号です。この讃美歌三〇六番が映画で流れていた曲と一致すれば、すべては解決することになります。ところが、今皆さんが使っている讃美歌の三〇六番は、残念なことに曲が違っています。賢治の見た讃美歌が今の本とは違っているかもしれないので、古い讃美歌にあたってみました。
明治23年の讃美歌を見ると、歌数が少なくて三百番台の歌などありませんでした。そこで大正8年の増補改訂版を見ると、かなり曲が増補されていましたが、やはり違っていました。次に昭和6年の讃美歌を調べたところ、ようやく探していた曲にめぐりあいました。この本にある三〇六番こそが映画タイタニックで流れていた讃美歌で、現行の本(昭和29年以降)では三二〇番になっています。それが「主よみもとに近づかん」(ニアラー・マイゴット・ツージー)でした。これで『銀河鉄道の夜』が引用している沈没船の話が、間違いなくタイタニック号事件であることがわかりました。おそらく沈没のニュースが世界中に報道され、日本でも有名だったのでしょう。沈没船で讃美歌を演奏するのは決して映画の脚色ではなくて、当時の新聞で報道された事実だったのです。賢治がそれを知っていたことは、『春と修羅』という詩集の中に、「タイタニックの甲板でNearer my Godか何かうたふ」とあることによってもわかります。
さて、ここまでは順調にいったのですが、学問の世界はそんなに甘くありません。実は私は最初、谷川徹三校訂の岩波文庫で『銀河鉄道の夜』を見たのですが、賢治の生原稿では讃美歌の番号のところが二字分空白になっていました。岩波文庫の初版は昭和二六年ですから、おそらく曲名から当時の讃美歌番号であった三〇六番が付け加えられたのでしょう。これは賢治ではなく校訂者谷川徹三の加筆だったのです。
では賢治は何故歌番号を空白のままにしたのでしょうか。確かなことはわかりませんが、明治23年版では一六九番、大正8年版では二四九番だったものが、昭和6年に三〇六番に変更されたこと、また英語版の讃美歌でも番号が異なっているので、賢治自身どの番号に決定すべきか迷っていたのかもしれません。
賢治はこの事件から、他人を押しのけてまで生きることより、身をひいて神のもとに召されること、また死を目前にしながらも讃美歌を演奏し続けたことに感動したのでしょう。賢治の脚色といえば、その讃美歌を乗客も一緒に歌うというところにありました。
5 桐壺巻の不在めぐって(古典2) 2025.2.4
一巡りしてまた古典です。物語を面白く読むためには、書いてあることをそのまま受け取るだけでは不十分です。何が書かれているかの裏側に、何が書かれていないか(隠されているか)を考えてみなければなりません。学校では出席をとりますが、誰が出席しているかがわかれば、そこから誰が休んでいるかも自ずからわかります。
私は『源氏物語』を、推理小説の犯人捜しのように読むことを勧めています。推理小説には、必ず犯人捜しの布石が置かれているからです。それに気づかずに素通りしていては、犯人に行き当らないだけでなく、面白く読めないと思うからです。
では桐壺巻冒頭の本文はどうでしょうか。そこに何が書かれていないかすぐにわかりますか。書いてあるのは「女御更衣あまたさぶらひ給ひける」です。これで後宮に大勢の女性たちが仕えていることはわかります。しかしここで肝心なのは、そこに描かれていないものを見つけることです。
そもそも後宮には、女御・更衣以外にどんな人が想定できるでしょうか。ちょっと考えてみてください。そうするともっと重要な存在、つまり后(中宮・皇后)が描かれていないことに気づくはずです。おそらくまだ誰も立后していないのでしょう。それがわかると、ここに登場している中の誰が后になるのか、という興味が湧いてきます。
本命は、いわずとしれた弘徽殿女御です(女御は一人しか登場していません)。ところが一介の桐壺更衣が「すぐれて時めき給ふ」とあって、弘徽殿と張り合っていることがわかります。そうなると、更衣による下克上まで想定されます。とにかく何が書かれていないか、常に考えながら読み進めてほしいのです。
次に桐壺更衣が御子を出産する場面はどうでしょうか。皇子が誕生した途端、一の皇子のことが語られるのは、これまで皇子が一人しかいなかったからでしょう。二人目の御子の誕生によって、今度はそのどちらが皇太子になるのかという問題が浮上したのです。だからこそ一の皇子の外戚である右大臣が登場しているのでしょう。
ではこのことから、描かれていないものが何か、おわかりになりますか。そう、大臣は一人ではないですよね。というより右大臣の上席には左大臣がいるはずです。場合によっては太政大臣や内大臣の存在も考えられます。少なくとも左大臣はいます。それにもかかわらず、当分姿を見せません。どうしてなのでしょうか。左大臣は次期皇太子争いには無関心なのでしょうか。
肝心の左大臣は、源氏の元服に至ってようやく登場します。となると左大臣の存在は、今まで意識的に伏せられてきたとしか思えません。右大臣の存在があって、その上席たる左大臣が登場しないのは、どう考えても不自然だからです。おそらく弘徽殿と桐壺更衣の対立の構図を強調するために、意図的に描かれなかったのでしょう。あるいは物語の背後で、左大臣が桐壺更衣をバックアップしていたのかもしれません。あるいは弘徽殿の立后を阻止・延引させていたのかもしれません。左大臣ならそんなことも可能だからです。最終的に源氏の後見役を引き受けたのも、その延長線上で考えられます。
そんなことをあれこれ考えていると、ふと皇太子が不在であることに気づきます。桐壺帝が即位する際、誰も立太子していないのでしょうか。実は後になって前坊(廃された皇太子)の存在が明らかにされます。皇太子は確かにいたのです。
もう一つ、目立たないけれども重要な不在がありました。それは、桐壺更衣の女房達が一人も描かれていないことです。もちろん後宮における権力争いですから、弘徽殿と桐壺更衣の一騎打ち(直接対決)で事足りるのかもしれません。あるいは後宮における桐壺更衣の孤立を強調するために、あえて側近の女房を描いていないのかもしれません。
それにしても臨終という大事な場面に、桐壺更衣の乳母さえ登場していないのは変です。普通だったら桐壺更衣の一番の身内・側近として、母北の方以上の乳母の悲しみが描かれてもおかしくありません。しかしながら、結局桐壷更衣の乳母は、物語に一度も姿を見せることはありませんでした。「はかばかしき御後見しなければ」ということからは、父大納言の死去のみならず、乳母の不在までも読み取らなければならなかったのです。
いかがですか。不在ということを意識しただけで、物語の読みがぐっと深まったとは思いませんか。
4 「日本」は「にっぽん」か「にほん」か(日本語1) 2025.1.28
世界中の国の中で、自国名の読み方が統一されていない国があるというのは、珍しいことではないでしょうか。これは国民性あるいは日本語の特徴なのかもしれませんが、日本人は案外曖昧なところがあって、自国名について「にっぽん」でも「にほん」でもどっちでもいいと思っている人が多いようです。みなさんはどうですか。
そういえばアメリカのことを日本人は「米国」と書き、イギリスのことを「英国」と書いていますが、これは日本以外では通用しない表記です。同様のことが日本語教育の現場で生じています。外国人留学生の悩みとして、「日本」をどう読めばいいのかわからないという声がよく聞かれます。もちろん日本語教師はきちんと教えているのでしょうが、ひとたび町へ出た途端、まったく不統一で混沌としていることにいやでも気づかされます。
たとえば福澤諭吉が印刷された一万円札には「Nippon(Ginko)」とあります。「日本放送」は「ニッポン(ホウソウ)」、「日本郵政」は「ニッポン(ユウセイ)」です。またサッカーなどのスポーツでは、「日本代表」を「ニッポン(ダイヒョウ)」としています。それに対して「日本酒」は「ニホン(シュ)」、「日本航空」は「ニホン(コウクウ)」、「日本大学」は「ニホン(ダイガク)」、日本語日本文学科は「二ホン(ゴ)ニホン(ブンガッカ)」ですね。どうも読み方に法則などなさそうなので、これを留学生に納得させるのは大変です。
中でも面白い現象として、東京で地下鉄に乗って「日本橋」駅で降りると、「Nihombashi」と案内板に書かれています。これが大阪に行くと「Nippombashi」となっています。どうやら関東では「にほん」派、関西では「にっぽん」派のようです。現状でこのように二つの読みが混在しているのですから、これを統一しようというのがそもそも無理な相談です。
では何故このような二通りの発音が存在するのでしょうか。歴史を遡ると、古く日本は「倭」の国であり、それを「やまと(大和)」と読んでいました。後に「日の本」「日本」という表記が用いられるようになりましたが、それは国内向けというより国外向けでした。「日」は漢音「ジツ」、呉音「ニチ」です。「本」は漢音・呉音とも「ホン」としか読めません。「日本」は呉音の字音読みとしてまず「にっぽん」と発音されたものが、次第に促音を発音しないやわらかな「にほん」に変わったという説が有力です。それとは別に、平安時代は貴族の大和言葉として「にほん」とされ、鎌倉時代になって武士が「にっぽん」というようになったという説もあります。これなら関東と関西の違いということも説明がつきます。
いずれにしても、二つの読みは今日まで併用されてきました。近代になって、俄かに統一しようという動きが生じています。昭和九年の文部省臨時国語調査会において、「日本」の読み方は「にっぽん」に統一されました。その際、例外的に東京の日本橋と「日本書紀」だけは「にほん」と読むことを許容しています。それに伴って、外交文書における国号の英文表記も、「Japan」(英語)から「Nippon」(日本語)に変更されました。当時は、日中戦争などが始まろうとしていた時期であり、軍部は「にほん」よりも「にっぽん」の方が力強く(勇ましく)聞こえるからという理由だったようです。「にほん」だと「二本」と同音になって紛らわしいということもあげられます。ただし伝統的な和歌の文化を継承する皇室では、「ニッポン」のような促音は好まれませんでした(非歌語)。
この文部省臨時国語調査会の決定を受け、帝国議会でも審議されました。戦争中の昭和十六年には、帝国議会で当時の国号「大日本帝国」の発音を「だいにっぽんていこく」と定める検討がなされましたが、最終的には保留のまま法律制定には至っていません。そして第二次世界大戦後の昭和二一年、帝国憲法改正特別委員会において、「日本国」と「日本国憲法」の正式な読み方について質疑がなされた際、金森徳治郎憲法担当大臣(当時)は、「決まっていない」と答弁しています。戦後も読みは不統一のままだったのです。
その後、昭和四五年七月、大阪万国博覧会を睨んで佐藤栄作内閣は、「日本」の読み方について「にほん」でも間違いではないが、政府は「にっぽん」を使うと閣議決定を行いました。しかしここでも法制化にまでは至っていません。おそらく「にっぽん」とすることで、再び軍国主義化することが懸念・抑制されたのではないでしょうか。
そして平成二十年には、読みをどちらか一方に統一する必要はないという答弁が行われ、複数の読みを許容することで現在に至っています。これに関してNHKの調査では、「にほん」派が六一%で「にっぽん」派が三七%でした。「にほん」と読む人の方が圧倒的に多いことがわかります。ただし当のNHKは、日本の国名(国号)として、「にっぽん」を採用しています。統一されるのがいいのか、それとも不統一こそが日本の文化なのでしょうか。
3 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の本文校訂問題(近代1) 2025.1.21
近代文学からは、真っ先に『銀河鉄道の夜』を取り上げました。宮沢賢治の代表作として今も人気が高いからです。でも賢治が生きている間、出版されることはありませんでした。それもあって賢治は、十年近く原稿に手を入れ続けています。というより、複数の草稿が残されていました。
賢治の原稿(遺稿)は、すべて弟の清六に託されており、亡くなった翌年の昭和九年には、文圃堂から全集全三巻として刊行されました。ただし残されていたのは『銀河鉄道の夜』の草稿であり、完成原稿ではありません。文圃堂版が刊行された時点では、そういった草稿の研究はまだ行われていませんでした。
その後、研究者による綿密な本文研究が行われたことで、大きく三度にわたる改稿が確認されました。それを便宜的に第一次稿から第四次稿と分類し、その成果は昭和四十九年に筑摩書房から『校本宮澤賢治全集』として刊行されました。この校本には第一次稿から第四次稿までの『銀河鉄道の夜』の四つのバージョンがすべて収められており、研究者必携の本となっています。
そこで明らかになったのは、第一次稿から第三次稿までにはさほど大きな改稿がないこと、第四次稿においてかなり大きな改稿が行われているということです。たとえば冒頭の三章分、学校の場面からジョバンニが活版所に行って仕事をし、家に帰って病身の母親と話すという展開、及び結末のカムパネルラが川で行方不明になる話は、第四次稿において増補されたものなので、それ以前にはありません。逆に第三次稿まであった、銀河鉄道の旅はブルカニロ博士の実験によって主人公が見た夢だったという設定は、第四次稿において削除されています。要するに第四次稿にブルカニロ博士は登場しないのです。
これに基づき、第一次稿から第三次稿までを初期形、第四次稿を最終形もしくは決定稿とされました。これは必ずしも完成形ではないのですが、必然的に第四次稿を底本とした本文が研究論文に引用されるようになっています。賢治の改稿の意図に関しては、初期形が自己犠牲の精神を高らかに謳っているのに比して、最終形はむしろ「雨ニモマケズ」にも共通する「祈り」がテーマになっていると分析されています。そのため「ほんとうのさいわい」が何かが曖昧になってしまったという意見もあります。
ところが文圃堂版全集の本文が第四次稿ではなかったこともあって、初期形の『銀河鉄道の夜』に慣れ親しんできた読者にとって、ブルカニロ博士の登場しない『銀河鉄道の夜』は到底受け入れがたいものでした。要するに第四次稿が決定版になることはなかったのです。そのため『銀河鉄道の夜』は、便宜的に初期形と最終形の二つを一緒に掲載するという、きわめて異例な形で刊行されています(斎藤茂吉の『赤光』もこれに類似しています)。
それだけではありません。苦肉の策というか、最終形を底本にしていながら、賢治が削除したブルカニロ博士を復活させるという、いいとこ取りの変形バージョンまで編み出されました。これは作者である賢治のあずかり知らぬ、後人によるリライトあるいはミックス版ともいえます。その代表例が谷川徹三校訂の岩波文庫版でした。これは明らかに谷川徹三の文学観が入り込んだもので、いわゆる純粋な校訂とは異質のものです。ですから岩波文庫本を底本として、宮沢賢治の執筆意図を研究することはできません。できるのは谷川徹三の校訂意図の研究です。もちろんそれも研究として成り立ちます。ただしそういった経緯がわからないまま、安易に岩波文庫を使用するのは極めて危険です。
といっても、岩波文庫版は一般読者に人気がありかつ安価なので、このバージョンが好きだという読者も少なくありません。現在でもそれなりに人気があるので、再版され続けています。ですから『銀河鉄道の夜』を読んだり研究する際は、何を底本としているかをきちんと認識する必要があります。特に岩波文庫は要注意です。やっかいですね。
2 桐壺巻の「あらぬが」の「が」をめぐって(古典1) 2025.1.14
古典は光る君への余韻として、『源氏物語』から始めます。みなさんは桐壺巻の冒頭部分にある「いとやむごとなき際にはあらぬが」の「が」について、高校古文の授業で「これは逆説の接続助詞ではなく同格の格助詞」と習いませんでしたか。かつて高校生だった私は、「けれども」と逆説で訳した方がわかりやすいのに、どうして「人で、人」という日本語としてすっきりしない訳にしなければならないのか疑問でした。先生に質問すると、「つべこべいわずに覚えろ」といわれたのを覚えています。今からもう五十年以上も前の話です。
普通の高校生だったらそれで引き下がるかもしれませんが、私の心はずっとくすぶり続けました。ひょっとするとこのことが、古典を研究するきっかけになっているのかもしれません。後になって石垣謙二という研究者が、「主格「が」助詞より接続「が」助詞へ」(『助詞の歴史的研究』岩波書店・昭和30年)という論文で、平安中期頃の助詞「が」に接続助詞として用いられた例は見出だせないので、これは格助詞とするべきだと論じていることを知りました。
要するに古文の教科書はこの石垣説を踏まえることで、同格の格助詞として統一されていたわけです。しかし古文の先生から、そういった経緯についての説明は一切ありませんでした。最近は、
接続助詞の「が」は格助詞が元になっており、接続助詞としての「が」は平安時代末期以降になってから用いられるようになった。
と説明されることもあるようです。いい時代になりましたね。ただここに問題がないわけではありません。というのも石垣氏自身、
主格「が」助詞より接続「が」助詞への発展は実に剩す所一歩であり、接続「が」助詞の発生に対する準備は茲に全く完了したと称する事が出来るのである。
とも述べられているからです。
逆説の「が」の扱いについては、文法的に正しいか間違っているかではなく、時間的に早いか遅いかだったのです。ということは、仮に『源氏物語』と同時代の作品の中に接続助詞の用例が見つかったら、たちまち逆説で訳すことも許容されることになります。そもそも同格の「が」の用例は少ないし、後世には逆説の方が主流になるのですから、後世の人が逆説で解釈するのも当然です。私など一歩踏み込んで、桐壺巻の「あらぬが」こそは逆説の接続助詞の初出例ではないかとさえ考えています。
幸いそれは私だけの妄想ではありませんでした。田村隆氏(東京大学)も「いとやむごとなききはにはあらぬが―教科書の源氏物語」(語文研究104・平成十九年十二月)及び「『桐壺巻』の練習問題」(高校国語20・平成二五年)という論文において、懐疑的な見解を述べています。もっとずっと以前に玉上琢弥氏も、
「あらぬが」の「が」は、この当時接続助詞としてはっきりした用例が見られないので、格助詞として見る、とするのが国語史での通説であるが、格助詞という分類に拘泥して、「たいして重い身分ではない方が、めだって御寵愛の厚い、ということがあった」などと日本語らしくない訳文をつくる必要はないと思う。国語史家でも格助詞から接続助詞に移行するその中間の時代であると考えているのだから。
と疑問を投げかけていました。それに賛同したのか、瀬戸内寂聴の現代語訳や橋本治の『窯変源氏物語』などでは、堂々と逆説で訳されています。
こういった解釈の揺れが生じる以前、大学入学試験問題として、
いづれの御時にか、女御、更衣あまた侍ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。
という問題文があげられ、
【問題】下線部の「が」について、次の空欄を文法用語で補え。
この「が」は、イ[ ]を示すロ[ ]と考えられることもあるけれども、今では一般にハ[ ]を示すニ[ ]とされている。
という設問が出されたことがあります。これに対する模範解答は、
イ=逆接 ロ=接続助詞 ハ=同格 ニ=格助詞
でした。
正解は高校で教えられているままなので、当時は入試として疑問視されることはなかったようです。しかし今だったら、入試問題として出題することはできないかもしれません。あえて出すとすれば、「高校では逆説の接続助詞ではなく同格の格助詞と教えられているが、それについて意見を述べなさい」です。さてみなさんはどのように解答するでしょうか。
1 令和七年は巳年です! 2025.1.7
まずは干支のことから始めましょう。今年の干支は乙巳(きのとみ)です。十二支の六番目ですが、どうして六番なのかは不明です。そこで漢字から攻めてみます。まず「乙」は未だ発展途上の状態を表し、「巳」は植物が最大限まで成長した状態を意味します。この干支の組み合わせによって、これまでに蓄積してきた努力や準備がようやく実を結び始める時期であることを示唆します。中国の『漢書』律暦志にも、それまでの生活に終わりを告げて、新しい生活が始まると書かれています。巳年は成長と結実の時なのです。
実は私も巳年生まれなので、今年は年男になります。もっとも昔は還暦までで、その後の年男など想定されていなかったようです。無事に正月を迎えられただけで儲けものなのです。なお年男にはもう一つ、正月の行事を担う意味もあります。正月行事の年男は、門松の準備や神棚の飾り付け、若水を汲むなど、正月の歳神様を迎える役割を担っていました。また旧暦では、節分の行事も正月行事の一部とされていたので、年男が豆まきも担当していました。それが新暦によって正月と節分が分離したため、年男による豆まきが独立した風習のように思われているのです。
ところで日本では、『古事記』にあるヤマタノオロチ退治をはじめ、多くの神話や民話に登場しています。ただしキリスト教によってか、蛇は不気味だとか恐ろしい存在のように受け取られています。それと反対に、脱皮を繰り返して成長するところは、復活・再生・不老長寿や金運向上のシンボルとして、古来縁起の良い生き物ともされてきました。特に白蛇は弁財天(弁天様)のお使いとされており、信仰の対象として幸福をもたらすシンボル(神の使い)として尊ばれています。言語遊戯的に、「巳」は「実」と同じ読みなので、そこから「実(巳)入りがいい」ともいわれています。縁起担ぎに脱皮した蛇の抜け殻を財布に入れたり、蛇の皮製の財布を金運のアイテムとしているのはそのためでした。
なお金運を願う人は十二日に一度めぐってくる「巳の日」を選んで、神社にお参りするといいとされています。宝くじ売り場では、「本日巳の日」と張り紙を出しているところもあるそうです。この「巳の日」の中でも特に金運に良いとされるのが、六十日に一度の「己巳(つちのとみ)の日」です。その日、各地の弁天様は多くの参拝客で賑わうとのことです騙されたと思ってやってみませんか。そうそう京都左京区鹿ケ谷(哲学の道)にある大豊神社は、狛犬ならぬ狛ねずみで有名ですが、実は医薬の祖神である少彦名命も合祀されており、非常に珍しいとぐろを巻いた狛へびがあります。本殿に向かって右側の蛇が白色で、口を開けています。左側の蛇は黒色で、口を閉じており、ちゃんと阿吽の姿をして。今年の心霊スポットですから、是非金運上昇のお参りに行ってみてください。
ついでに蛇に関する質問です。みなさんは蛇が出てくることわざをいくつあげられますか。「蛇足」は中国の故事です。「竜頭蛇尾」は期待外れの感があります。「藪蛇」は「藪をつついて蛇を出す」のことで、やらなくてもいいことです。「蛇に睨まれた蛙」は身がすくんで動けなくなります。「蛇の道はへび」は同類には同類のことがわかるという意味です。そうそう「虹」が虫偏になっているのは、虹が蛇に見立てられたことによります。そもそも昔は爬虫類と昆虫の区別もできなかったので、蛇も蛙も蜥蜴も蟹も蜘蛛も蚯蚓も蝙蝠も蛤も蛸も蝦も虫偏になっています。というより虫偏は昆虫以外のものも含んでいたのです。
もう一つ、みなさんは「巳」「已」「己」の違いがわかりますか。三つとも類似していますが、よく見ると縦棒が上までか中までか下までかで読みも意味も違ってきます。「巳」は音読みが「シ」で訓読みが「ミ」です。これが干支の「へび」ですね。「已」は音読みで「き」、訓読みで「すでに」です。三つ目の「己」は音読みが「き・こ」で、訓読みは「おのれ」になります。巳年に関する基礎知識、是非授業で活用してください。質問・お便りなども待っています。
同志社女子大学日本語日本文学会